日本の憲法を起草したアメリカ人たちは、このような出来事を「青天の霹靂(へきれき)」として見守っただろうか。むろん、そんなことはない。むしろ国連憲章とは、アメリカ人たちが慣れ親しんでいた国際秩序を世界的規模で導入したものだ。
アメリカは西半球世界において、19世紀の「モンロー・ドクトリン」から1910年の「汎米連合(Pan American Union)」、20世紀後半の米州機構(Organization of American States: OAS)につながる、ヨーロッパ列強の植民地主義とは異なる自由主義の理路に基づいた諸国間の秩序の体系を築いてきた。その体系が、第一次大戦後の国際連盟規約、戦間期の不戦条約などを通じて、ヨーロッパ、さらには「世界のドクトリン」として、普遍的なシステムへと拡張されていった。アメリカ人が中心になって起草された国連憲章もまた、その結実であると見るべきであろう。
アメリカが主導する国際秩序観は「嫌いだ」といった話をするのであれば、それは個人の好みであり、勝手である。だが憲法解釈を巻き込んで、あたかも日本国憲法典が国際秩序を「嫌いだ」と言っているかのように偽装することは、社会的な害悪である。
地域的集団安全保障としての日米安保条約
日本が独立国としての主権を回復したサンフランシスコ講和条約(1951年調印、1952年発効)では、「連合国としては、日本国が主権国として国際連合憲章第51条に掲げる個別的又は集団的自衛の固有の権利を有すること及び日本国が集団的安全保障取極(とりきめ)を自発的に締結することができることを承認する」という文言が挿入された(第3章 第5条(c))。そして同時に締結された日米安全保障条約では、前文において「(日米)両国が国際連合憲章に定める個別的又は集団的自衛の固有の権利を有していることを確認」する作業が行われた。
これらの文言は、国連憲章の考え方を前提にして、日本の主権回復を承認したサンフランシスコ講和条約が成立し、日米安全保障条約が締結されたことを示している。これら三つをつなぐのは、「集団的自衛権」を根拠にした「集団的安全保障取極」の概念である。
日本国憲法の論理では、まず国連安保理を軸とする集団安全保障を「信頼」した国家安全保障政策が模索される。しかしそれが不十分であれば、国連憲章51条の論理に従って、個別的・集団的自衛権という代替措置が模索される。51条の問題とは、NATOのような地域機構に属さない日本にとっては、駐留米軍の法的性格の問題であり、日米安全保障条約の問題であった。