「金融の常識」深夜に押し問答
1993年6月、大蔵省(現・財務省)の元銀行局長が、第二地方銀行の兵庫銀行の社長(のちに頭取に変更)に就任した。第二地銀は、都市銀行、地方銀行に次ぐ業界で、ときに大蔵次官も出す銀行局長経験者には異例の「低いポスト」だ。金融界は、そこに「大蔵省の強い決意」を感じた。経営難の兵銀を何としても立て直し、「銀行は一つもつぶさない」としてきた戦後の銀行行政を維持してみせる、との意思だ。
社長人事の記事をみて、複雑な思いが浮かぶ。日本興業銀行(現・みずほ銀行)で、商社を担当する国際営業二部の参事役として、営業部で初のライン管理職になっていた。だが、実はその前職で、兵銀救済問題に、深く関わっていた。
米国の証券会社勤務から戻り、国内営業本部の業務部で、課長級の副参事役だった40代前半だ。ある日、深夜に日本銀行に呼ばれた。いくと、銀行で兵銀株を最も持っていた都銀の人間もいた。興銀は銀行では持ち株比率は3位。なぜか、2位の銀行はいない。そこで、日銀の課長は、兵銀への救済融資を求めてきた。
元銀行局長をトップに据え、経営陣を固める。そして、株主の銀行に計200億円の救済融資をしてもらえば、兵銀は倒れない。話の中に、そんな大蔵省銀行局が描いたシナリオが、みえた。