人口減の克服へ、東京を国際都市に
実は、自分のなかの「アズ・ワン・チーム」の原点は、30代半ばに取り組んだ群馬県大泉町での大規模宅地の分譲に遡る。町が進めた区画整理で生まれた96ヘクタールの約2割を購入し、一部を造成前の土地と交換、83年2月に建売住宅の分譲を始めた。終盤には別の仕事へ異動したが、86年までに377戸の建売住宅と建築条件付きの更地を売った。
計算すると、坪5万円くらいで売れれば利益が出る。だから、難しくなくみえるが、地域では高めで、はたして買い手があるか、見通せないまま始まった。現地にいってみると、近隣に大手企業の工場が三つあり、近々、もう一つくる、と聞いた。狙いは決まる。大手企業の工場なら、地域外からの赴任が多いはず。そのマイホーム需要に、照準を合わせた。
まず、それらの工場を訪ねた。どんな持ち家促進制度があり、家族構成からどんな間取りの希望があるか、情報を入手する。相手も「地方工場で働いてもらうためには、何か動機付けがほしい。『大泉へいったら家が持てる』としたいから、低金利の社内融資を付ける」と応じた。次は地元の銀行へ通う。工場の社員には、どのくらいの自己資金とローンのくみ合わせがいいのか、実情を聞き、価格や返済例を固めていく。
工場も銀行も、住宅販売子会社の担当者も連れていった。ごく当然な手法と思うが、担当者は「そこまでやるのですか」と驚く。開発の親会社は「つくったから、後は任せる」で、販売子会社は土地や住宅の情報を受け取り、ただお客に売り込むだけ。それまで、そんな分業が当然だったからだ。それでは、大泉のような未知の地で、どんなお客がいるのか、どういう需要があるのかわからないまま、開発が先行してしまう。
このとき、開発の技術者から販売会社の新入社員まで、総勢は8人。バレーボールやバスケットボールのチームならできるが、決して多くはない。全員で住宅の企画を考え、図面もチェックする。週末の分譲開始日には、自分や技術者も現場に立ち、お客を案内した。振り返れば、まさに、ロックフェラーセンターの債務処理で経験した「アズ・ワン・チーム」の原型だ。それがなければ、大泉は完売できなかっただろう。
「用兵攻戦之本、在乎壱民」(用兵攻戦の本は、民を壱にするに在り)――兵を動かし戦う際は、まず民の心を一つにまとめることだとの意味で、中国の古典『荀子』にある言葉だ。兵士や領民の思いが一つになっていなければ、軍備を整えて立派な戦略を立てても勝てない、と説く。難題だった大泉開発で体験したチームとしての手応えを、ロックフェラーセンターの処理を巡る難局にも投影した木村流は、この教えと重なる。
いま、頭の中の多くを占めているのは、東京の「国際都市」としての向上だ。国際比較では、オフィスビルなどハード面をみて世界3位との例もあるし、言語の壁や規制の多さなどソフト面も加味して15位との例もある。やはり、世界の人がやってきて、普通に仕事ができる環境が足りない。子どもたちの外国語教育の場も少なく、多国語での表示など多様性の受け入れも遅れている。通勤電車が超満員のままでも、いけない。
要は、国際都市としての地位を上げるには、日本が国際化をしようという強い姿勢をみせる必要がある。それができて初めて、世界から人や仕事や資金が集まってくる。これこそ、人口減の克服やデフレからの脱却の道につながるのではないか。無論、それには長い年月が必要だ。でも、日本全体が「在乎壱民」になれば、時間などは問題ではない。
1947年、埼玉県生まれ。70年東京大学経済学部卒業、三菱地所入社。96年秘書部長、2000年取締役経営企画部長、03年常務執行役員、04年専務執行役員、05年取締役社長。11年より現職。