開発の進め方で社長に何度も指摘
1987年末から88年初めにかけて、就任1年目の社長に、満40歳の身で何度も「直言」した。「三菱村」とも呼ばれる東京・丸の内の第三次開発の構想を、新社長が発表しようと、準備を急がせていた。再開発そのものは、当然だ。むしろ、遅れ気味だったから、打ち出すのはいい。ただ、その進め方に、疑問を抱いていた。
まだバブル経済は膨張していなかったが、外資系企業のオフィス需要が増え、2年前から丸の内のビル街は手狭になっていた。テナントから使用面積の増大を求められても、1000%が上限の容積率に余裕はなく、増床はできずにいた。しかも、ビル群はかなり古くなり、港区などの新しいビルへのテナント流出が始まっていた。
そうした状況を一気に解決しようと、構想は、規制緩和で容積率の上限が2000%になることを前提にしていた。だが、それには地元の千代田区、東京都、建設省(現・国土交通省)の同意が不可欠だ。そうしたところへの打診や事前説明もないまま、発表してしまうのはまずい、と確信した。
当時は総務部にいて、社長のところにいく用事があれば「容積率の引き上げは影響が大きいので、役所に打診して、感触を確かめたほうがいいのではないですか」と言ってみた。だが、社長は「いや、単なる提案だからいいのだ」と言うだけ。厳しい人で、報告にいって怖い目に遭った部長も多い。でも、「直言」に不満げになることもあったが、聞いてくれた。
88年1月、その丸の内再開発計画が発表された。だが、記者たちの質問は「容積率2000%の実現性」に集まる。「東京マンハッタン計画」ともされた新ビル街の模型にも、墓石が並んだようだと「ツームストーン(墓石)計画」との陰口が出た。準備チームはしょげて「メディアはわかってくれない」と愚痴る。その後、チームの多くが交代し、行政当局との関係構築が図られる。結局、代表的な丸ビルの建て替えが決まったのは、7年後だった。