個々の力を高め組織は風通しよく

70年4月に入社、調査室に配属される。その後、調査室が企画部に衣替えされ、労組の委員長に選ばれるまで計10年いたが、役員向け資料の作成で経済の動きや市況などを分析して書くうちに、大学紛争で勉強できなかったマクロ経済を学ぶ。この間に1年、社内の留学制度で米国へいき、首都ワシントンの社会人向けの夜間ビジネススクールに通う。昼も英語を習い、先生の女性が言語学を専攻していて、日本語に興味を示したので、互いに母国語を教え合う。

40代は総務部で迎え、すぐに冒頭のように秘書部へ異動。そこで40代を終えた後、98年1月に企画部長に就く。東京駅丸の内北口の旧国鉄本社跡地の入札が、1カ月後に控えていた。普通はビル事業部の担当だが、日本生命と組んで応札することになったため、他社との交渉事を担当する企画部が受け持った。そして、入札にかかる土地は、三菱グループにとって、外せない歴史があった。

1889(明治22)年、新橋─上野間に鉄道を敷き、その中間に中央停車場(現・東京駅)を設けることが決まったのを受け、翌年に陸軍が使っていた丸の内地区が三菱グループの前身の三菱社に払い下げられた。その一部が鉄道会社側に渡り、そのなかに国鉄本社になる土地もあった。そうした経緯もあり、他社に落札されたくはない。再開発したら先行きの不動産市況や金利で収益はどうなるか、分析を重ね、ここまでなら買い取っても中期的に採算に乗る、という入札価格をはじき出す。

応札額は3008億円で、3つの企業や企業連合をかなり離して落札した。1坪当たりは8272万円。1万2000平方メートル(3636坪)のうち、日本生命が4分の3を得て、三菱地所は丸の内オアゾなどになる4分の1を手にした。北側にあったビルの底地権と合わせ、駅の丸の内口正面の丸ビル、新丸ビルとともに、駅前広場を囲む街づくりへと踏み出し、停滞が懸念されていた第三次開発が大きく動き出す。

金融危機のまっただ中、オフィスの賃料も下がっていて、首脳陣には「高過ぎないか」との声もあった。でも、丸の内の第三次開発にはその土地が重要なこと、とくに大手町との地上・地下の導線を確保するには不可欠な点を説き、頷いてもらう。いま、多くの人が導線の便利さを感じている。やはり、「直言而無諱」は大切だ。

2005年6月に社長に就任。最初に社員に求めたのは、インテグリティー、オープンマインド、チームワークの3つ。インテグリティーは、就任前に大阪で土壌汚染問題が出て、法令違反ではなかったが、いままで以上に社会と誠実に向き合おう、との要請だ。オープンマインドは情報を共有し、問題が起きたときにはみんなで語り合おう、との呼びかけ。チームワークは、個々の力を高めて「1たす1」が2ではなく、3や4になる組織にしたい、との思いだ。

すべてに「直言而無諱」は欠かせない。風通しのいい組織でなければ、どれも前には進まない。

三菱地所会長 木村惠司(きむら・けいじ)
1947年、埼玉県生まれ。70年東京大学経済学部卒業、三菱地所入社。96年秘書部長、2000年取締役経営企画部長、03年常務執行役員、04年専務執行役員、05年取締役社長。11年より現職。
(聞き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)
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