日本の歴史を振り返ると、1467年に始まる応仁の乱をきっかけにした「戦国時代」は、まさにポスト・トゥルースだった。誰が正しいのか、権威を持っているのか、はっきりしない。そんな中で人々は、それぞれの直観と才覚を最大限に発揮して、生き抜いていった。
戦国時代には、リーダー選びも必死だった。織田信長につくのか、豊臣秀吉か、それとも徳川家康か。どの「親分」についていくかで、成功や失敗どころか、自身や一族郎党の生死さえ、決まってしまったのである。そのような時代には、人々は必死になって、ある人物の資質や能力を見極めようとしたことだろう。
何が真実で誰が権威を持っているのかが「上」から決まっていくのではなく、まさに下克上で、競争の中で合意形成されていく。そんな時代は大変だが、人間の潜在能力が一番発揮されるのも確かである。
日本の歴史を見ても、戦国時代に生まれた茶の湯などの文化は、今でもすぐれたものとして認められている。予定調和ではない、個性の輝く時代だったのだ。
ポスト・トゥルースの16年に起こったさまざまな出来事は、一見、グローバル化に対する反動のように見える。しかし、世界のさまざまな国、地域が相互依存を深めるという流れ自体は、変わるとは思えない。
むしろ、グローバル化の中での今後の新しい秩序への模索が、世界規模で始まったということだろう。そんな中で、既存の価値や権威が問い直されていくのがポスト・トゥルースなのかもしれない。
潜在能力を発揮するチャンスだと思えば、そんなに悪くもない。ポスト・トゥルースの時代を、前向きに生きていきたいものである。