▼第2回「男の涙は武器になるか」

裁判でおなじみの場面に、被告人が流す反省の涙がある。

これには2種類あって、ひとつは自然な感情の昂ぶりがもたらす本物の涙、もうひとつが自己演出による偽物の涙だ。演技で泣けるのは役者だけではない。誰でもその気になればできるということを、ぼくは傍聴を始めてから知った。

その気とは何か。

“ここは泣くべき”と判断し、泣くことに前向きになることである。罪を反省し、二度としないと誓う場面で、被告人はどうすれば本気度を伝えられるかと考える。その、もっとも安直な答えが涙を流すことなのではないかと思わされるほど、証言台で泣き出す被告人は多い。

とくに裁判でのふるまい方に慣れていない初犯者、強制わいせつなどの事件で妻が証人としてきている男、被害者の関係者が傍聴席に詰めかけている裁判で顕著。ことばでは足りない誠意のようなものを泣くことで見せ、印象を良くすることを狙っているように感じる。

責めているのではない。

被告人は真剣そのものだ。問題は、それがうまくいくことがほとんどないことである。

裁判員裁判を除き、裁判は検察官、弁護人、裁判官というプロの手で運営されている。被告人の代理人である弁護人は黙っていても「大いに反省している」と言ってくれる人。一方、検察官は泣こうが叫ぼうが「犯行は悪質」と決めてかかっている。涙のターゲットが、判決に直接関わる裁判官であることは誰にでもわかるだろう。

裁判官とはどういう人たちなのか。

おそらく冠婚葬祭業者に次いで、涙を見慣れている人たちだ。彼らにとっては、感極まって泣く被告人など見飽きた光景でしかない。泣くのはやめろと注意こそしないが、「やれやれ、また始まったか」という表情からして、1ミリも心を動かされていないのは明らかだ。

つまり、通常の裁判では被告人が、「深く反省しています。申し訳ありませんでした」と首を垂れようと、「深く反省しています。エッ、エッ、申し訳……うぅ……ございませんわぁぁ」と号泣しようと、結果は一緒。

考えてみれば当たり前のことで、それしきのパフォーマンスで判決が変わったのでは、なんのために法律があるのかという話になる。

裁判で有効な誠意とは、被害者への弁済金であり、和解書であり、反省文や今後一切連絡しないというような誓約書なのだ。