東大卒業後、ゴールドマン・サックスへ

【田原】端羽さんの人生は、波瀾万丈ですね。まず東大を卒業して、ゴールドマン・サックスに入社された。どうして外資系投資銀行を選んだのですか。

【端羽】ほかに日本の企業の内定をいただいていましたが、そちらは配属が不明でした。私はその会社の新規事業に興味がありましたが、現実には財務や人事に行く可能性がありました。一方、ゴールドマン・サックスは投資部門への配属が決まっていましたから。

田原総一朗
1934年、滋賀県生まれ。早稲田大学文学部卒業後、岩波映画製作所入社。東京12チャンネル(現テレビ東京)を経て、77年よりフリーのジャーナリストに。若手起業家との対談を収録した『起業のリアル』(小社刊)ほか、『日本の戦争』など著書多数。

【田原】投資部門に行きたかったの?

【端羽】父親が熊本の地銀に勤めていて、幼いころから「産業を育てるのは金融だ」と聞かされていたのです。しかも、「これからは銀行が直接お金を貸す時代ではなく、間接金融の時代だ」とも言っていました。父の言うとおりだとすると、企業のさまざまな資金調達の手段を助ける投資銀行はやりがいがあるんだろうなと。

【田原】ゴールドマン・サックスではどのような仕事をされていたのですか。

【端羽】IPO支援をしていました。最初にアサインされたのは、スターバックスコーヒージャパンが当時の大証ヘラクレスにIPOするプロジェクトでした。あとはM&Aの提案です。いろんな会社に行って、「この会社を買いませんか」「この事業、売りに出しましょう」と提案するのです。ただ、大学を出たばかりの新人でしたから、プレゼン資料をつくったり計算をしたり、とにかく上から命じられた仕事をミスなくこなすだけで精いっぱいという感じでした。

【田原】その仕事を1年で辞めてしまいますね。これはどうして?

【端羽】じつは大学の卒業直前に結婚していて、1年目で子どもができたのです。ゴールドマン・サックスは深夜12時に帰ることができれば「今日は早いね」と言われる職場。子どもを育てながらやるのは無理です。ニューヨークの本部は「残らないか」と言ってくださいましたが、やっぱり「私だけ早く帰ってごめんなさい」という気持ちで仕事をするのは嫌でした。

出産後、米国公認会計士の資格を取って日本ロレアルへ

【田原】それで日本ロレアルに転職する。これはなぜ?

【端羽】出産後も働く気持ちがあったので、仕事を辞めた後に勉強してUSCPA(アメリカの公認会計士の資格)を取りました。そうした経緯があって、英語と会計の知識を使える仕事を探していたのです。その中でいいなと思ったのが日本ロレアルです。妊娠中は服が入らないのであまりおしゃれできませんが、化粧なら存分にできます。そのせいか初めてお化粧に興味が出てきて、ちょうどいいなと。

【田原】日本ロレアルは早く帰れる職場だったのですか。

【端羽】当時は違いました。土日は完全にお休みで、平日も深夜にはなりませんが、帰宅が11時ごろの日はありました。11時まで預かってくれる保育園に入ることができたので助かったんですけど。

【田原】ゴールドマン・サックスに比べればまだいいですね。ところがここも1年半でお辞めになって、アメリカに留学する。経緯を教えてください。

【端羽】夫のボストン留学が決まったのです。留学先がニューヨークなら、ロレアルのニューヨークに転勤させてもらおうと考えていたのですが、ボストンになったので、自分も学校に行こうかなと。私が通ったのはMIT(マサチューセッツ工科大学)のMBA(経営学修士)です。MBAにしたのは、起業を視野に入れていたから。自分の中に出産で組織から1回外れたというコンプレックスがあって、将来は組織の中で勝負するより自分で力試しをしてみたいという気持ちがありました。