高い目標に、厳しいコスト制限。やっと出来上がった構想も却下。進むべき道がまったくわからないまま時間だけが過ぎていく。大ヒットした初代から二代目への「6年分の進化」は、まさに修羅場の中で生まれた。

心のどこかで初代の販売減を願っていた

<strong>ホンダ 人見康平</strong>●四輪開発センターLPL(Large Project Leader:商品開発責任者・写真右)。性能を上げるとコストが上がる。コストを下げると性能が下がる。怒号の飛び交う大部屋で「第三の答え」を探った。写真左は購買本部四輪購買企画室購買主幹の原義信氏。
ホンダ 人見康平
四輪開発センターLPL(Large Project Leader:商品開発責任者・写真右)。性能を上げるとコストが上がる。コストを下げると性能が下がる。怒号の飛び交う大部屋で「第三の答え」を探った。写真左は購買本部四輪購買企画室購買主幹の原義信氏。

ど真ん中の剛速球勝負でつくり上げたクルマです、と二代目フィットの開発指揮を執った本田技術研究所の人見康平主任研究員は、胸を張る。

開発指令は突然、やってきた。ホンダの新車開発はLPL(ラージ・プロジェクト・リーダー)と呼ばれる開発責任者を中心に取り組まれる。

突如、予期せぬLPLを命じられた人見は喜びよりむしろ、困惑を感じていた。それもそのはずで、人見の3年先輩にあたる松本宣之(現・執行役員)が開発した初代フィットは2001年6月の発売から半年で10万台の販売台数を達成。日本カー・オブ・ザ・イヤーを受賞する栄光に輝き、発売後6年間で累計200万台の販売を記録したホンダを代表する大ヒットカーだったのである。

その二代目開発を命じられた人見が、当時の懊悩(おうのう)を語る。

「初代フィットは6年経っても売り上げがほとんど落ちることなく売れていました。こうしたことを言うのは不謹慎ですが、(後継車を)開発する立場からすれば、売り上げが落ちてくれたほうがやりやすい。フィットの場合は、リレーでいえばバトントップで走ってきたようなものですから、それは一番苦しかった」

周囲からも「二代目は苦労する」という声が聞こえてきた。そこで人見は、あえてずば抜けて高い目標の開発戦略を打ち出す。

一、ゼロベースで開発する
二、開発体制は大部屋方式とする