「ゴミ出しの場所」という接点

若新雄純(わかしん・ゆうじゅん)
人材・組織コンサルタント/慶應義塾大学特任講師
福井県若狭町生まれ。慶應義塾大学大学院修士課程(政策・メディア)修了。専門は産業・組織心理学とコミュニケーション論。全員がニートで取締役の「NEET株式会社」や女子高生が自治体改革を担う「鯖江市役所JK課」、週休4日で月収15万円の「ゆるい就職」など、新しい働き方や組織づくりを模索・提案する実験的プロジェクトを多数企画・実施し、さまざまな企業の人材・組織開発コンサルティングなども行う。
若新ワールド
http://wakashin.com/

市の事業としての「ゆるい移住」は3月で終了し、彼は他のメンバーと共に、引き続き鯖江市内のアパートで共同生活を始めました。すると今度は、集落内での「ゴミ出しの場所」を地域との“接点”として、ものすごく重視するようになっていました。

情報化社会は、僕たちの暮らしを「個人化」させて分断したと言われています。人に道を訪ねなくてもスマホがあれば目的地にたどり着くことができて、ほとんどの欲しい「もの」や情報は1人でも手に入れることができます。そして、お金を払えばどこでもご飯は食べられるし、電車に乗れば誰ともしゃべることなく自分の都合で移動ができます。

しかし、そんな分断された社会の中でも、人間として生活をしていれば必ず物理的な「ゴミ」が発生します。そして、ほとんどの人はそれを、地域や集落(場合によってはマンション内)ごとの共有スペースである「ゴミ出しの場所」に捨てています。どんなにネット社会が進んでも、そこだけは物理的な距離の「ご近所さん」と共有しているのです。

「ゴミ出しの場所」では、時間がかぶらなければお互いの顔を直接意識することはあまりないかもしれません。しかしその一方で、そこには自分にとってもっとも身近な「まち」の人たちの暮らしぶりが詰まっています。そして、顔が見えないからこそ、ルール違反やだらしない使い方は、非常に悪い心象を生み出します。

都市部の成熟と飽和に伴い、地方のコミュニティの価値が注目されるようになってきました。昔はあたり前だった地域内の「相互扶助」が見直され、市民同士の「交流」や「シェア」が盛んに叫ばれています。でもそれは、別になにか特別な能力や情報を提供しなくてもいいわけです。人間として生活する中で、1人では完結しない社会との接点や共有の場所をすこし丁寧に扱う、ということでいいのだと思います。

「まちづくりを身近なものに!」なんていうスローガンをよく見かけますが、自分の暮らしのごく身近なところに「まちづくり」の入り口や本質がある、というだけのことかもしれません。

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