東京でITコンサルをしていた岩佐大輝さんが、震災の翌日、宮城県山元町に帰って見たものは、津波で変わり果てた故郷の風景だった――。故郷のイチゴ産業を復活させなければ。そう決心した岩佐さんは、イチゴ名人の匠(たくみ)の技を、農業×ITで、超高級ブランドイチゴ「ミガキイチゴ」として復活させる。
仙台から電車で40分。宮城県山元町は東北最大のイチゴの産地だったが、2011年3月、東日本大震災で大津波に襲われ、多くの畑が流されてしまった。その山元町にITを駆使した新しい農業を持ち込み、イチゴ産業の復活を果たしたのが、1977年生まれの39歳、岩佐大輝(いわさひろき)氏である。
岩佐氏が生み出した新しい特産品は、1粒1000円で売れるという超高級果物「ミガキイチゴ」。イチゴづくりで地域に雇用を生み出すことに成功した岩佐氏は、現在はインドでイチゴ生産を行うなど海外進出に挑戦中。農業経験がなかった岩佐さんは、なぜイチゴ産業を復活させることができたのか? 田原総一朗氏と岩佐大輝氏の対談、完全版を掲載します。
女性トラブルで上京、ニート生活から起業
【田原総一朗(以下、田原)】岩佐さんは宮城県・山元町のご出身ですね。東日本大震災の話は後でうかがうとして、岩佐さん自身はいつまで地元にいらしたのですか。
【岩佐大輝(以下、岩佐)】19歳で上京しました。以前交際していた女性が反社会的な人と付き合い始めて、いろいろ脅迫を受けたのです。それが怖くて、東京に逃げてきました。
【田原】東京で何をしてたんですか。
【岩佐】西日暮里に部屋を借りて、毎日パチンコをした。高校を卒業した後、予備校に通っていたのですが、女性トラブルに巻き込まれてしまいましてしたり、競輪場に通ってました。ほとんどニートですね。
【田原】仕事はしてなかったの?
【岩佐】ソフトを開発して売っていました。小学生のころからパソコン少年だったんです。うちは少し変わった家で、親は何も買ってくれないかわりに、バイトをしても何もいわれなかった。それで自分で新聞配達をしてパソコンを購入。昔から趣味で自作のソフトをつくってましたが、2000年くらいにはそれでお金を稼げる時代になっていて、お小遣い稼ぎをしてました。