難題は、もう1つあった。通常は船倉が7つあり、そこにコンテナを全部積んでくれれば、問題はない。ところが、船主は船倉が1つ置きに空になっても、支障がないようにしてくれ、と言う。

港で荷物を下ろした船倉は空のままに、他は積んだままにして、すぐに次の港へ向かいたいのだ。そうすると、重心がかなり上がり、波を受けて航行する際の強度が余計に必要となる。やはり応力を制限以下に抑えるため、いろいろ条件を設定し、計算を繰り返す。

引き渡しに際し、航行させてみると、無事に海を走ってくれた。正直言って、計算結果に100%の確信まではなかったから、安全率を余分に見込んだ。でも、あのすごくうれしかった気持ちは、忘れない。大変だったが、技術者としての責務を果たせた。

振り返ると、不思議に、会社でも経験のない領域に取り組む仕事が続いた。30代の終わりに引き渡したVLCCと呼ぶ大型タンカーの設計では、応力や振動の影響など大規模な計算が必要だった。それを期限内にこなせる高速コンピューターは当時、国内に2台。その1台を借りて、ひたすら計算を繰り返し、未踏の世界に至る。

「素其位而行、不願乎其外」(其の位に素して行い、其の外を願わず)――正しく徳のある人は、地位や使命を自覚し、それを果たすべく努力を貫き、それ以外のことは考えない、との意味だ。儒教の四書の1つ『中庸』にある言葉で、任された難題も正面から受け止め、責務を果たすことのみに邁進する加藤流は、この教えと重なる。

厳しくても、新しいことに挑戦することが好きだった。常々、人に言われたありきたりの仕事をするのは嫌だな、と思っていた。いろいろ注文をつけられ、「こうやってくれ」と言われても、その通りにやって返すのでは物足りない。「こうしたほうがいいのではないですか」と言いたい。加藤流には、そんな性格も、背後にある。

1947年5月、北海道空知地方の赤平で生まれる。両親は愛媛県の出身で、父が勤めていた石炭会社の赤平炭鉱へいた当時だ。弟が2人の5人家族。自宅の裏が山で、冬はスキーを担いで登っては滑り降り、楽しんだ。

2年生になるときに東京へ引っ越し、杉並区の小学校へ転校。だが、中学1年の夏に父が佐賀の炭鉱へ転勤となり、また家族で移る。福岡市に4年いて、テニスを始め、県立修猷館高校へ進んだ。ところが、1年が終わるときに父が東京へ戻ることになり、都立日比谷高校へ転校。結局、小・中学校、高校とも、2つずつ通った。

早大理工学部の機械工学科では、かなり本気で勉強し、大学院は材料力学の研究室。就職では、その知識を活かして大きなものを造りたいと思い、三井造船を選ぶ。