チームのメンバーと意識を共有する

京セラにしてもそうだった。大学を卒業後、一介の技術者として松風工業という碍が いし子を製造する会社に就職した稲盛氏は、当時まったく新しい分野だったファインセラミックスの開発を担当する。一心不乱に研究に打ち込んだ結果、事業化に成功。その後、出資者の支援を受け京セラを創業した。59年、27歳のときである。

「私の家が裕福で資産があり、それを元手に会社を設立したのであれば、オーナーとして余裕のある経営ができたでしょうが、お金もなく、実務経験もありません。黒字化は緊急課題だったのです。幸い、全員で必死の努力を重ねた結果、初年度から黒字決算になりました」

ところが創業3年目に、前の年に採用した高卒社員11人が、待遇改善を要求してきた。三日三晩話し合い、最後は納得を得たのだが、その経験を通して気づいたのは、社員と心を合わせるためにも、社員が「ここに入ってよかった。将来の生活も安定する」と思える会社にしなければならないということだった。そこから「全従業員の物心両面の幸福を追求すると同時に、人類、社会の進歩発展に貢献すること」という京セラの経営理念が生まれた。

稲盛氏は「それを実現するには、どうしても高収益体質の企業にしなければなりません。私は、経営を学んでいく過程で、会計が現代経営の中枢と考えるようになりました。会社を長期的に発展させるためには、財務状況の実態を正確に把握されなければならないと気づいたのです」と述懐する。

やがてこれが、あの有名な「京セラ会計学」に昇華していく。それは、「人間として何が正しいかで判断する」という京セラの経営哲学に基づいた管理会計だ。振り返ってみれば、日本の社会は80年代からはじまったバブル経済の熱狂に踊らされた企業の経営者が過剰な投資に走り、個人も財テクなどでアブク銭を追いかけた。しかし、バブルは崩壊し、その後はデフレスパイラルがはじまり、企業業績は低迷し、貧富の差も拡大してしまった。

そんななか、バブル経済の熱狂に流されず、一代で京セラを世界的な会社に育て上げた稲盛氏の生きざまと経営術はクローズアップされたのだ。

「京セラの経営理念と会計手法は、私が仕事や経営について、またお金の使い方について自問自答するなかで生まれてきたものです。いわば、実践を通して得た経営哲学であり、その基本は『人間としてこういう生き方が正しいと思う』ことをまとめたものです。この考え方は、2000年に発足したKDDI、10年に引き受けた日本航空(JAL)の再建にも生かされています」