伊藤忠入社 三菱商事、三井物産殲滅

45L12QB。この暗号めいた数字、アルファベットの羅列には意味がある。45は昭和45年(1970年)。L12は文科系の文科1類と文科2類。Qはクラス名。最後のBは第2外国語でドイツ語の履修。つまり、昭和45年に東京大学に入学した文科1類(法学部)、文科2類(経済学部)の合同クラスを意味している。

大阪府立高津高校から東大文科2類に入学した岡藤は、このクラスに在籍。ここからは後に財務省事務次官の杉本和行(現公正取引委員会委員長)、現在検事総長の椅子に座る大野恒太郎など、エスタブリッシュメントが輩出されている。昭和45年といえば、東大闘争の煽りから東大が入試中止を決定した翌年で、混沌とした空気が学内を覆い、東大闘争の象徴である安田講堂は廃墟のように放置されたまま。こんな時代に岡藤は東大での4年間を過ごした。

当時、東大生の主流だったのは、私立御三家と呼ばれる開成、麻布、武蔵や教育大付属駒場(現筑波大付属駒場)といった都内の東大入試定番校の出身者で、親元から通学し、金銭的な余裕もある知り合い同士だった。対照的なのが地方の高校出身者で、ある地方出身者のための学生寮費は、月額100円。朝食40円。夕食120円。100円の寮費を払えず、100円足らずの食費も惜しむ学生は少なくなかった。

岡藤は、孤高の学生だった。当時流行だった片方の目が隠れんばかりの長髪でガリガリに痩せていた岡藤を、「教室で寝息を立てる姿が今でも思い浮かぶくらい不思議と存在感があった」と、岡藤とはゼミの同期だった小川孔輔法政大学経営大学院教授は回想する。

「別に友達必要ないわ」

岡藤はこう公言していたようだ。

孤高の学生が励んだのは、アルバイトだった。当時、東京・亀戸にあった岡藤の下宿先を訪れたことのある数少ない友人、宮本正樹(日本製粉常務執行役員)にとって、岡藤は立派なビジネスマンに見えた。宮本によれば、岡藤にはただならぬ商才があったという。