ウナギ養殖に関心「学校より社会」

社長になる前に2度、投融資委員会の委員長を務めた。一定規模以上の投融資の是非を決める場の責任者。数字の精査は部下がやってくれ、自分の役割は「おい、これは本当か?」というチェック。それまで、根を詰めて書類を読み切る経験は少なく、苦労した。でも、読み続けていると、どこで数字に細工がされているか、わかるようになる。みえみえの部署もあれば、手の込んだ「トリック」を盛り込む部署もある。

いずれも、採算点を示してはいるが、それだけでは満足しない。トレーダー時代から「損益とんとん」という発想はない。投融資の後、キャッシュフローはどこまで耐えられるか、赤字がどこまでなら回るのかを、常に考える。「バックストップ」の確認だ。

「無急勝而忘敗」(勝に急にして敗を忘るるなかれ)――勝とう、勝とうとばかり考えて、負けることもあることを忘れてはいけないとの意味で、中国の古典『荀子』にある言葉だ。人間、とかく勝つしか考えず、敗れた場合の備えを忘れがちとなる。この戒めは、どんなに「いい話」にみえそうな案件も、常に「バックストップ」を忘れない國分流と重なる。

1952年10月、東京都世田谷区で生まれる。父は絵画や詩に打ち込み、母は音楽教師。ともに外出が多く、自由に育つ。小学校でラグビー部、麻布中学ではサッカー部に入り、高校まで続けた。

何にでも好奇心を抱き、学業以外の多様な世界を知っていく。

慶大経済学部でも同様で、「学校よりも社会」で過ごし、いろいろな人脈もできる。そのなかで、ウナギの養殖事業への参加を誘われた。真剣に検討し、養殖が盛んだった静岡県浜松市へ視察にもいく。だが、出資金が足らず、祖父に頼んだが、「どうしてもやりたいなら、まず働いて、資金を貯めろ」と諭される。その祖父が元商社マン。日中貿易に関係し、丸紅と縁が深く、就職を勧められる。「商社なら、ウナギの養殖ができるかも」と思い、頷いた。

75年4月に入社。「ウナギの養殖」を考えて食糧部門を希望したが、エネルギー本部の石油ガス開発室へ配属される。2年目に石油第一部の製品課へ異動し、先輩のトレーディングの補助役が始まる。1人でトレードをさせてもらうまで、修業が5年も続く。

2013年4月、社長に就任した。それまでの38年間で、海外勤務が計17年半。その最後となった丸紅米国の社長時代、巡回でフィラデルフィアにある金融子会社を訪ねた。そのとき、「おや、この建物は、前にきたことがあるな」と思う。聞くと、かつて清算した合弁会社で経理主任だった男性を、再就職の面談に連れてきたところだった。日本の銀行が買収したリース会社で、2000年代初めに丸紅が買い取っていた。

再就職を頼んだ幹部も、再就職ができた元主任も健在。「不思議な縁だな」と感じるとともに「無急勝忘敗」の戒めが改めて甦る。

(聞き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)
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