胸に刻み込んだ「もしも」への備え
1992年12月3日、米国建国の地フィラデルフィアにあった丸紅の孫会社で、1人で灯りを消して回り、事務所に鍵をかけた。5年半前に自らが設立した石油類のトレーディング会社を清算し、立ち去る日だった。
従業員は24人。全員に、解雇を通告した。問題は再就職。トレーダーたちは、「腕一本」の世界で、すぐに仕事がみつかる。取引の清算などをした面々も、別のトレード会社や石油会社へいけた。苦労したのは、経理や事務などの一般職。再就職先探しに、一緒に走り回る。帰国の辞令は9月20日付。でも、12月初めまで残って、探し続けた。
帰国後、最後の1人の仕事がみつかった、との知らせが届く。ほっ、とするとともに、重い教訓が残った。「いい結果ばかりを想定し、もしものときの備えがなかった。これでは、いけない」。いまに至るまでの軸となった思いが、胸に刻まれる。40歳のときだ。
合弁会社をつくるまで4年強、ニューヨークでトレーダーを務めた。着任当初は、日本の石油会社などのために石油類を確保する現物取引だけだったが、市場で先物取引が急激に膨らみ、ウォール街の金融先物業者に引きずられ始める。それをみて、「これが時流」と感じ取る。ただ、社内では債券や穀物などの先物は手がけていたが、石油類は御法度。本社に「これからは先物が主流になる」と繰り返し、ついに認めさせた。世界の原油事情から市場の駆け引きまでを読んで、相場変動のリスクを取って利益を出す。トレーダーの腕次第の世界が、幕を開けた。
中東情勢が平穏だった時期で、1年目に大きく稼ぐ。その後、価格の下降期に入り、1人ではさばけきれなくなる。フィラデルフィアの会社は、そんな状況下で、米石油大手と合弁で設立した。日本から同道した妻と長男、ニューヨークで生まれた次男と長女も、一緒に移り住む。