――ゴーン社長との出会いなどを含め、当時についてお話しください。
【志賀】98年、私は経営企画室にいました。役職は次長。年齢は43歳。ルノーとの交渉団の一員でしたが、社内では交渉そのものが極秘でした。しかし、ルノーのルイ・シュバイツァー会長(当時)から、「(ルノー上級副社長だった)ゴーンを日産の役員に紹介しておきたい」との申し出があった。そこで、一計を案じ、「ルノーのコストダウン」という講演をする名目で、ゴーンは初めて日産に来たのです。98年10月でした。講演を企画したのは私でしたから、末席で聴きました。そのときのゴーンのエネルギー、そして迫力に私は圧倒され、塙義一社長(当時)に思わず、訴えました。「ルノーと組むのだったら、ゴーンさんに来てもらいましょう」と。
――半年後には現実となりますね。
【志賀】 アライアンスの調印が済み(99年)4月になると、ゴーンは日産再建に集中していました。経営企画室として問題だったのは、98年以降に中期経営計画を作成できなくなっていたこと。利益計画が立たないためです。中期計画は、やがてNRPとなって10月18日に発表されます。
――ゴーンさんの会見には私も出席しましたが、日本中が衝撃を受けた。
【志賀】NRPは村山工場閉鎖や人員削減、コストカットなど8割方はリストラの内容です。ところが、NRP発表と同時期ぐらいに、私たち経営企画は成長戦略の計画策定に着手していくのです。具体的には、米国にキャントン工場を建設していくという内容でした。村山は閉鎖するけれど、収益を見込める米市場には打って出ていく。内部にいて本当に驚きました。リストラを終わらせてから次に進むのではなく、同時に検討に入ったという点にです。リストラだけでは成長はできないというゴーンの考え方でした。
――日本人の発想を超えてますね。
【志賀】私は半年間で米国の計画を策定しました。しかし、もっと大きな動きが始まります。忘れもしない、2000年2月14日。そう、バレンタインデーでした。この日、私はゴーンに呼ばれて、常務になる内示を受ける。喜びもつかの間にその場で、「アメリカだけではダメだ。中国に出る」と突然、ゴーンから言われたのです。再び衝撃を受けました。考えてもいないことでしたから。しかも、「おまえが、中国をやれ」と、立案ばかりか実行を委ねられる。2カ月ほどで、中国参入戦略をつくり経営会議に提出しました。そのときには東風(汽車公司)が、パートナーとしてプランに入っていました。