深まる「仏教化」
私は昨年、『謎の村上春樹』という小著を上梓しました。この本の最終章で、春樹は今後、仏教的な傾向を深めていくだろうと予測しました。
ものごとの善悪を決めつけず、対象をありのまま受けいれることは、仏教思想の眼目です。春樹はおそらく、「語り手や視点人物に「落ち度」があるせいで、読者の反発をまねくかもしれない小説」を、以前から書きたいと考えていたのでしょう。自分のなかのそうした衝動を素直に認め、もはや隠すまいと決意した。それが、『女のいない男たち』における春樹の変貌をもたらしたのだと私は考えます。
そんな風に思う理由のひとつは、この短編集に、「自分の内面を直視して、受けいれよ」という文言が、くり返し現れることにあります。
「傷ついたんでしょう、少しくらいは? 」と妻は木野に尋ねた。「僕もやはり人間だから、傷つくことは傷つく」と木野は答えた。でもそれは本当ではない。少なくとも半分は嘘だ。それは傷つくべきときに十分に傷つかなかったんだ、と木野は認めた。本物の痛みを感じるべきときに、おれは肝心の感覚を押し殺してしまった。痛切なものを引き受けたくなかったから、真実と正面から向かい合うことを回避し、その結果こうして中身のない虚ろな心を抱き続けることになった。(『木野』)
どの同業者よりも、「まわりにどう思われるか」に敏感だった春樹は、メディアへの露出の仕方もきわめて周到でした。たとえば、『夢をみるために毎朝僕は目覚めるのです』の巻頭インタビューは、英語版と日本語版で、内容にちがいがあったりします。
にもかかわらず、『女のいない男たち』には、「まえがき」でも触れられているとおり、初出の折にクレームがついて、改変されている箇所がふたつもあります。こうした事態が生じたのも、「想定外の非難」を避けるために本心を偽ることを、春樹が止めたからではないでしょうか。