サークルづくりが新規事業うみ出す

1944年6月、仙台市で生まれる。父は仙台国税局に勤め、査察部門にいた。仙台二高から京大工学部の合成化学科へ進み、フォークダンス部に入る。そのとき一緒に活動した看護短大の女性と、のちに結婚することになる。4年になって、研究室にいたスイス人の博士と共同研究をした縁で、スイス連邦工科大チューリッヒ校への留学を勧められた。同校は、X線発見のレントゲンや相対性理論のアインシュタインらを輩出した名門。もちろんいきたいが、経済的に就職先を決めてからにしたかった。でも、そんな身勝手な話を認めてくれる会社は、普通ない。

ところが、大日本インキが、受け入れてくれた。優秀な学生を国内で2年間、大学院で学ばせる制度があり、内定後に海外留学にも適用してもらえないか頼んだ。すると、人事部長が会わせてくれた社長が、認めてくれた。67年4月に入社、5月に航路でイタリアへ向かい、鉄道に乗り換えてチューリッヒに入る。

研究分野は光化学。物質に熱ではなく、光を当てて化学合成させる最先端領域だった。でも、こつこつと時間をかけて実験を重ねる生活に飽き足らず、デザインを学ぶ講座も取り、イタリアへ旅行してルネサンスの巨匠らの作品に触れた。巨匠らは絵画や彫刻のほかに、建築や化学、哲学などに活動を広げ、狭い世界に閉じ籠っていない。仕事を高めるために休暇があるのではなく、休暇で充実した時間を過ごすために仕事がある。そんな考えが根付いていく。

2年後に帰国、浦和市の研究所、千葉県の市原工場、東京・日本橋の本社海外事業部で、3年ずつ勤務した。日中は技術者としての世界に集中するが、夕方以降や週末は別の世界に熱を込める。勉強会や異業種交流に始まり、市原では落語同好会やテニスサークル、日曜農園も立ち上げる。さらに、落語会で利用実績を積んだ千葉市のショッピングセンターから、空きスペースを無償で貸してくれる話が舞い込み、カルチャーセンターも開く。

77年春、所属していた海外事業部に、全日本級のテニス選手だった青年が入社した。いずれテニス界へ戻ってコーチをしたいと聞き、テニス教室の事業化を相談する。当時、雨天でも使える屋内コートを持つクラブは、都内に5カ所しかない。その一つに入っていた青年を追って自分も入会し、そのクラブがボウリング場を改装したと知る。その後、東京タワーを保有する会社が千葉市に持っていたボウリング場が閉鎖するとわかり、借りてテニス教室を開く企画書を作成し、会社に提出した。子会社に教室を受け持つ部門ができて、出向し、そのまま居ついた。

92年6月、社長に就任。48歳になるときだった。16年務めて会長となり、いま事業のテーマは「レジャー」から「健康」へ移るが、「楽しんでやる」という軸は変えていない。テニスも、いまも続けている。ただ、「健康のために」と称して、義務的に黙々とやるようなやり方は、嫌いだ。まずは、楽しむ。楽しんでいるうちに、健康になる。それが、手堅さと並ぶ、軸だ。

(聞き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)
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