幕張で1号店を開いたときも、周囲には「やりたいことを、好き放題にやっている」と映ったようだが、勝算はきわめていた。会費を3カ月1万5000円とし、2000人で採算に乗る計画だったが、開業前に3300人も応募がくる。テニスブームのうえに、近隣でマンションや分譲地が開発され、団塊世代らの家族が流入していた。40人規模の託児所を併設した先見性もあり、1年後には4000人に増える。

大成功。だが、「こんなことが、いつまでも続くわけがない」と直感した。社内にも「短期に大成功した事業は、必ず真似する企業が出て、競争が激化する」と説き、コストを抑えたテニス教室の増設を急ぐ。併せて、収益の「複眼化」も考えた。2階のコート2面をつぶし、スイミングスクールを新設する。広いロビーをジムとスタジオに改装し、アスレチッククラブにもしていく。

やがて、バブル経済が幕を開く。87年5月、「リゾート法」と呼ばれ、バブル膨張に拍車をかけた総合保養地域整備法が、成立した。全国各地で、派手な開発計画があふれ出す。それよりも1年余り早く動き始め、やはり堅い採算見通しとコスト削減の努力は、手放さない。

最初に協力要請がきた福島県棚倉町のリゾートスポーツプラザ「ルネサンス棚倉」は、町が第三セクターで手がける計画で、86年春に候補地をみた。資本金5000万円のうち、民間が4割を出し、その半分に当たる1000万円を出資する。

屋内4面を含めた30面のテニスコートに、室内プールや洋弓場、ゲートボール場にジムもそろえ、屋内馬場をつくって雨の日でも乗馬が楽しめるようにもした。やりたいと考えてきたことを、すべて並べた。それでも、同規模の開発の半額程度で済む。基本的な図面をすべて描いてから、設計と建設を入札した。開発業者に任せると、すごく割高になるからで、高い会員権で資金を集める手法もとらず、運営も引き受けて90年4月に開場。バブルの崩壊にも巻き込まれずに、生き残る。

「多算勝、少算不勝」(算多きは勝ち、算少なきは勝たず)――中国の古典『孫子』にある言葉で、勝機が十分にないときに戦うことを、強く戒めている。たとえ世の多くがある方向に流れていても、勝算がみえなければ手を出さない斎藤流は、この教えと重なる。