「30年後のカミングアウト」と怪しい証言
しかし、それから30年――教師、キリスト教の伝道者、村長などの職を転々として60歳を超えた今井は雑誌「近畿評論」からインタビューを受けている最中に、なぜか「龍馬を暗殺したのは自分だ」と突然のカミングアウトを始めたのです。
「やあ坂本さんしばらくといいますと、入口に座っていたほうの人(龍馬)が、どなたでしたかねえと答えたのです。そこでソレといいさま、手早く抜いて斬りつけました」
しかし……「最初横鬢を一つたたいておいて、体をすくめる拍子、横に左の腹を斬って、それから踏み込んで右からまた一つ腹を斬りました。
この二太刀でさすがの坂本もウンといって倒れてしまいました」という今井の証言は具体的なようで、事件の状況証拠と確実に異なるのです。
龍馬の遺体には額を真一文字にズバッと切られ、その一太刀で大脳が飛び出してしまうほどの深い傷がありました。つまり、左右どちらかのこめかみに相当する「横鬢」を「たたいた」くらいではない斬撃を頭部に受けていたのです。
また龍馬の血液が、床の間の掛け軸に向かって血飛沫となって散っていた状況証拠から、彼が座ったまま額を切られ、昏倒したことが推測されるのでした。
龍馬の額の深い傷跡は小太刀などで切ってできるはずがなく、今井がもっとも得意にしていた打刀――通常サイズの日本刀で、それも彼が愛用した重量感のある新刀の鋭い切れ味あってこそ可能だったはず。着座したままの姿勢から、対面で座っている坂本に切りかかったのは小太刀の名手とされた佐々木只三郎ではなく、今井で間違いないと思われます。
しかし、今井の証言にあるように「やあ坂本さんしばらく」といったり、龍馬の息の根を止めた一撃を食らわせたのは別人の可能性が強いと筆者は考えます。龍馬たちに警戒心が薄かった理由は、まさに「声」なのです。
龍馬の油断を誘った死神の声
事件現場の間取り図から判明しているのは、部屋の照明器具はおそらく菜種油に小さな灯芯を入れた行灯が一つだけ。その明るさたるや本当に微々たるもので、近江屋の二階に訪れた“死神”の顔など龍馬たちには確実に見えていません。
恐るべきことに、刺客たちは1階にいた雇われ用心棒の藤吉を、まるで遊んでいるような無邪気な歓声をあげながら始末していました。
そして藤吉の血がついた土足で龍馬たちのいる近江屋の2階に侵入したのですが、視界の不明瞭さよりも、龍馬たちが警戒できなかった理由は、「やあ坂本さんしばらく」というセリフを本当に龍馬が知っている、しかし誰かすぐには思い出せない程度の距離感の人物が吐いていたからだと思われます。
つまり耳に覚えがある「声」というのがポイントなのですが、この役は今井では不可能なのです。今井には事件以前に龍馬との接点がほとんどありません。
ところが剣豪・佐々木只三郎なら違います。
佐々木は、脱藩直後の龍馬が私淑し、剣の試合では一度も勝てたことがなかった清河八郎を一太刀にして葬った男でしたから……。
