その顔立ちに惚れぼれしていた

当時、千代は東京帝国大学に通う藤村忠と暮らしていた。事務員や家庭教師として働いても生活は苦しく、質屋通いが続いた。給仕の仕事に就いたのは、本郷のフランス料理店、燕楽軒だった。自伝『生きて行く私』には、客のコップにビールを注ぐことも許されず、料理を運ぶだけだったとある。

店には雑誌『中央公論』の名編集者・滝田樗陰がよく来た。千代の受け持つ席に座ると、一言も口をきかずに食事を済ませ、チップの五十銭玉を置いて帰る。その滝田に連れられ、芥川龍之介や久米正雄らが姿を見せることもあった。千代にも、顔を見れば誰か分かる文士たちだった。

そこで働いたのはわずか18日間。質屋に入れた品物を取り戻せるだけの金がたまると、店を辞めた。千代は料理を運ぶ側で、芥川は名前も顔も知られた客だった。

芥川と知り合ったのも、恐らくこの店だった。晩年の千代は、芥川に憧れた理由も飾らないで話している。売れっ子だったから惹かれたのかもしれない。何より、男前だった。痩せて蒼白い顔、その顔立ちに惚れぼれしていたのだろうと振り返る。一方、大人になってからは、文学者としてそれほど尊敬していたわけではないとも言う。どこまでも率直だ。

芥川龍之介
芥川龍之介(写真=『侏儒の言葉』/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

文壇で最も尊敬する「芥川ではない作家」

当時、千代自身も、すでに小説を書いていた。

文筆活動は、岩国時代の同人誌から始まっていた。恋愛問題で騒動を起こした後に渡った朝鮮では雑誌『朝鮮及満洲』の編集助手を務めた。上京後には実業之日本社の事務員として働き、出版に関わる仕事に興味を持っていた。どの仕事も長続きはしなかったが、東京へ来てからは、自分の文章を書くことも増えていた。

上京した千代が最初に訪ねたのは、私淑していた小川未明の家だった。1922年5月15日付『読売新聞』朝刊には、こんな言葉が残る。

「私が文壇で尊敬しているのは小川未明氏で、これまでも上京毎によくお伺い致しましたが」

千代は未明の創作に対する真摯な態度や話しぶりに接すると、涙ぐましいほど感動したという。「思想的にも氏の影響を受けているかも知れません」とまで書いている。

札幌へ移る前の東京時代、千代は日刊紙『万朝報』が毎週募集する懸賞短編小説へ作品を送っていた。1919年7月には、宇野千代の「習作」が選外ながら、当選作に次ぐ作品として評価されている。