「理解してほしい」という甘えを捨てる
そもそも、人間が抱えるアイデンティティは決して一様ではなく、いくつもの要素から成り立つ「複合アイデンティティ」である。
たとえば私の場合、沖縄出身の母を持つという側面があり、プロテスタントのキリスト教徒という側面があり、元外交官で、いまは作家という側面がある。人は誰しも、職場の顔、家庭での顔、友人の前での顔と、さまざまな側面を持ち合わせ、状況によって重心を移しながら生きている。
そのどれもが自分であり、多面的で複雑な人間の内面のすべてを、他者に完璧に開示して共有することなど不可能なのだ。
それなのに、現代人は「他者と完璧にわかり合うこと」に執着し、自分のすべてを無条件で理解し、受け入れてくれるようなつながりを求めてしまう。結果、他者に過度な承認欲求を抱き、自分が期待したほど理解されなかったり、認められなかったりすると深く傷ついてしまう。
しかし、他者から理解されないのは、ある意味で当然のことだ。他者は自分以外の人間の人生を完全に理解できるはずはなく、他者の複雑な感情のすべてを把握することなどできないからだ。
だからこそ、「自分のことを理解してほしい」という甘えを捨て、他者と適切な「距離感」を保つことが不可欠になる。
人間関係の心地よさは適度な諦めから
他者との適切な距離を取るうえで示唆に富むのが、哲学者である九鬼周造の『「いき」の構造』(岩波書店)である。九鬼は同書の中で、「いき」とは全部言わずに、一つ手前で止めることだと述べている。
いきなり自分のすべてを説明してわかってもらおうとするのは「野暮」であり、実体から少しずらすこと、あるいはぼかすことの中に、相手との適切な間合いが生まれるというのだ。
さらに九鬼は、「いき」を構成する本質的な要素として「媚態」「意気地」「諦め」の3つを挙げている。
「媚態」とは、他者を意識し、相手の存在を認めたうえで積極的につながろうとする態度のことだ。2つ目の「意気地」とは、自分自身の中に譲れない一線を持ち、たとえやせ我慢であっても、それを貫き通す気概である。そして第3の要素が「諦め」だ。九鬼はこれを、何事かへの執着を離脱した無関心、あっさり、すっきりとした心持ちだと説明している。
人間関係においては、この「諦め」こそが距離感を保つための重要な鍵となる。相手に過剰な期待を抱き、「自分のすべてをわかってほしい」「何としても手に入れたい」と執着することは野暮であり、かえって関係を息苦しいものにする。
むしろ、「他者とは究極的にはわかり合えないものだ」と、さっぱりと諦めること。そのことを悲観的に捉える必要はなく、相手との適度な距離感を保ち、無用な摩擦を避けるための知恵である。

