仕送りがアテにできなかった
いずれにしても、忠も帝大生。となれば、もう将来も約束された身の上である。あとは順風満帆な学生生活……にはならない。なぜなら、故郷からの仕送りがまったくアテにできなかったからである。
当時、旧制高校からなら原則として無試験で大学には入学できるが、学費はかかるし生活費も必要だ。霞を食って生きていくわけにはいかない。結果、二人は将来を約束された帝大生とその妻とは言い難い生活になった。
悟(変名)は学校へは籍をおいただけで、まるで出席せず、或る役所の雇員になって働いていた。私もまた、或るときは雑誌社の事務員に、或るときは家庭教師などをしていたが、それだけではたりなかった。(『生きて行く私』)
兄の亮一は学校に行かずに浅草で寝ていた。弟の忠も、学校に籍をおいただけで出席しない。兄弟そろって、学業とは縁遠い。
もっとも、兄は“女”の稼ぎで海苔巻を食い、弟は自分で働いて飢えをしのいでいる。無頼ではなく絵に描いたような貧乏暇なしだ。
みかん箱を机に…三食レンコン生活
当然ながら、部屋の中には家具などなにもない。
壁には雑誌から切り抜いた松井須磨子の写真なんかが貼ったりしてあるけれども、部屋の隅っこには蜜柑の空箱が一つおいてあって、それがちゃぶ台になったり、机になったりするのです。窓の手摺のところには手拭が一枚ひらひらと干してあって、傍には使い残りの炭俵と焜炉がおいてあります。(宇野千代『私のお化粧人生史』中央公論社、1955年)
みかん箱が机の代わりとは、藤子・F・不二雄先生あたりが貧乏生活の描写で使うフィクションかと思いきや、実際に使っている人がいたとは驚きだ。そして、雑誌から切り抜いた松井須磨子の写真。いや、漫画そのままの貧乏暮らしである。
ともすれば、つげ義春的な陰鬱な世界になりそうだが、千代はそうならない。なにより、この人は貧乏生活が苦にならない。粗食に耐え抜くメンタルが強い。
私は毎日、路地の出口の八百屋で、一山三銭と書いて出してある屑蓮の束を買って来て、それを煮て食べました。私はあの筋の多い、固い、屑蓮の煮たのが大好きです。朝も蓮、昼のお弁当も蓮。夜も蓮。私はいつでも何か好きになると、同じ事を立て続けにして了ふ、へんな癖があるのですけれど、食べ物でもさうなのです(『私のお化粧人生史』)。

