名も記されない“女”は、ちゃきちゃきの江戸っ子

ところが、この名も記されない“女”に対する千代の印象は、意外なほど良い。

女も、腰巻一つであった。そのまま、挨拶もせずに下へ下りて行ったが、それは私たちを歓待するためであった。やがて、海苔巻を皿一ぱいにのせて、上って来たからであった。「此奴は、ちゃきちゃきの江戸っ子でね」と雄一が言った。これが私たちの見た、江戸っ子の第一号であった(『生きて行く私』)。

腰巻一つである。

昼過ぎに、寝起きの格好のまま、無言で階段を下りていく。客を放り出して逃げたのかと思いきや、戻ってきた手には海苔巻の大皿があった。どこから調達したのかは書かれていないが、このもてなしの速さは見事というほかない。いや、もしかして「明日、弟が来る」と聞いて準備していたのか?

千代が上京して最初に出会った江戸っ子は、腰巻一つで海苔巻を出す、ヒモのような男性の同居人だった。東京という街の第一印象としては、かなり濃い。

浅草の寄席
浅草の寄席(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

そして、気まずい空気が皆無だったのは、“女”が江戸っ子だったからだけではないだろう。

“同じ境遇”が気まずさを薄めたか

亮一にとって、10日ほどの結婚は被害に近かったのではないか。母親が無茶をして式まで挙げたものの、当人の気持ちも分からないまま結婚などできるか、と家に帰らなかったのかもしれない。だとすれば亮一から見て、千代は「元妻」というより、母親の暴走に巻き込まれた同じ被害者だったはずだ。

そして、この手の話を、同居している“女”に話していなかったとは考えにくい。酒でも飲みながら「うちのおふくろがさ……」と、愚痴とも武勇伝ともつかない調子で、一度ならず語っていたのではないか。

もちろん推測である。だが、そう考えると腰巻一つのまま海苔巻を出してくる態度にも説明がつく。“女”にとって千代は、「話に聞いていた、あの子」だった。初対面の気まずさはない。あるのは、むしろ親戚に会うような気安さである。

その後、亮一は肺結核になり転地療養先の八丈島で死んだが、“女”は島までついてきたと千代は回想している。

ともあれ、そんなインパクトの大きな東京初日を経て、やがて二人は小石川駕籠町の女髪結いの二階に下宿する。現在の文京区本駒込2丁目付近、都営三田線、千石駅付近である。現在も公園などに駕籠町という町名は残り、区画も当時と変化は少ない。しかしながら、記録に残らなかったためか、下宿がどこだったかは今となってはわからない。『文京ゆかりの文人たち 増補版』(東京都文京区教育委員会社会教育課、1988年)も、本郷湯島天神裏の下宿を経て、小石川駕籠町に暮らしたという記述に留まっている。

なお、現在の千石駅付近は都市化しているが、当時は郊外。さらに北に巣鴨までいけば、いよいよ畑も目立つような場所であった。ただ、都市部に住めなかったというよりは、大学に近い適当な場所を探したら、ここにたどり着いたということだろう。