世界自然遺産の知床で起こった事件

そしてもう一つ取り上げるのが、昨年起こった羅臼岳登山道事件である。2025年8月14日、知床半島にある羅臼岳の斜里町側登山道(岩尾別コース)で、友人と下山中だった20代の男性がヒグマに襲われた。男性は翌15日、登山道から外れた現場近くの林内で親子グマに接触されている状態で発見され、収容後に死亡が確認された。

石名坂豪『熊害(ゆうがい):獣医師ハンターが見たリアル』(NHK出版新書)
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2005年7月に知床が世界自然遺産地域に登録されてから20年目にして、遺産地域内において初めて発生した人身死亡事故であった。また、知床半島全域においても、1985年4月に羅臼町でハンターがヒグマに逆襲されて死亡した事故以来、約40年ぶりの死亡事故である。属性として元来ハイリスクなハンター以外が被害者となった点も、特異的である。

本死亡事故の詳細については、地元関係機関で構成される「知床ヒグマ対策連絡会議」が公表した報告書のほうを参照いただくとして、今後同様の死傷事故が発生することを防止するために、私が必要と考えているポイントをいくつか指摘しておきたい。

アリ採食目的のヒグマが現れる場所

本事故は、夏期にアリ採食目的のヒグマと登山者との至近距離遭遇事例やヒヤリハット事例が過去にも多発していた、羅臼岳登山道の中でも特に「危険箇所」として知られていた「560メートル岩峰がんぼう」付近で発生した。

そこを通過する際の危険性は、以前よりSNSや世界遺産関係施設のホームページ、登山者向け地図、現地看板などで周知されていた。しかも事故の直前に登山者がヒグマにクマ撃退スプレーを噴射するような危険事例も発生していたが、個々の登山者には情報や危機感が十分届いていなかった。従来から現場を悩ませていた、強制力のない、受け取り手任せの普及啓発の限界が、死亡事故の形で露呈したのだ。

また被害者本人はクマ鈴については携行していたが、クマ撃退スプレーは携行していなかった可能性が高いと報告されている。もう一人の友人はスプレーを持参していたが、事故発生当初は被害者より約200メートル後方を歩いており、追いついた際に使用を試みたが、すでに残量がなかったのか噴射できなかったようだ。

しかもそのスプレーは基本的に対人用の防犯催涙さいるいスプレーの類であり、クマ類に対する有効性が証明されている商品ではなかったことを、現場に落ちていた缶の商品名ラベルを見たハンターから私は直接聞いている。