時々刻々と変わる状況下において、常に揺らがない「心」を保つ智慧を禅の教えに請う。「二元論的思考」から脱却すれば、どんな時代でもゆうゆうと生きていけるのだ。

同じ環境でも満ち足りる人と不満な人がいる

サブプライム問題に端を発する経済危機が叫ばれ始めてから1年半ほどが過ぎました。この間、リストラ、減少する年収、不安定な生活に不安を感じるビジネスマンが増えていることと思います。わたしたちは、なぜ、こんなに、お金が少なくなることに心を惑わされてしまうのでしょうか。お金の価値と働きがい、仕事のやりがいについて、どんなふうに考えたらよいのでしょうか。お金の価値を感じるのも、仕事のやりがいを感じるのも、「心=ココロ」です。心という存在は、「ココロ、コロコロ」のように実体のないもので、科学的に「心とはこれである」と解明されているものではありません。

「勝った・負けた」「得した・損した」といって一喜一憂するのも心、そのあらわれ方は百人百様です。同じような環境にあっても満ち足りた気分になる人もいれば、おおいに不満を覚える人もいます。お城のような邸宅で暮らし、毎日ご馳走三昧でも幸福感がやってこない人もいれば、極貧生活の中にも楽しみを見出し、麦飯と味噌汁だけの質素な食事をしみじみ味わえる人もいます。そう考えると、豊かな不満社会に生きる現代の日本人は、環境にかかわらず概して不満傾向にあるといえるのではないでしょうか。

それでは、職場でも家庭でも、移ろいゆくさまざまな場面で、環境やモノに左右されず、豊かな心を保ち、充実した生をまっとうするためには、わたしたちはどのように考え、日々を送っていけばよいのでしょうか。それなりにいい家に住み、いい車に乗り、いい服を着てブランド品をたくさん持っていても、不満は不満、そして不安は不安。心がそう感じる理由を解き明かしていく前に、ぜひとも耳を傾けていただきたい言葉があります。

「道は貧道より尊きはなし」

これは江戸中期の禅の中興の祖・白隠禅師の言葉で、意味は「たとえどんなに貧しくても、その日暮らしであろうとも、心だけは王侯貴族のような気持ちでありたい」。つまり、物質的な貧しさと心の貧しさは共にあるわけではなく、たとえお金が十分になくても、心のあり方一つで働きがいを得られ豊かになれるということです。

「道は貧道より」の言葉から思い浮かぶのが、私も尊敬する偉人の一人、あの良寛さんです。

良寛和尚(1758~1831)は、乞食坊主と呼ばれるほど質素に暮らした隠遁僧で、一つの鍋で顔も手足も洗い、煮炊きもしたという逸話が伝えられています。“五合庵”と呼ばれる草庵に暮らし、厳しい自然と孤独と向き合いながらも、天井が抜けて上から月影が差し込めば、その月を愛でながら、「あー、今夜の月はいい月です。清々しい風が身にしみる」といったそうです。まさに天地と我と同根(同じ)といった心境から、思わず知らずに出た言葉なのでしょう。僧侶であっても生涯寺を持たず、経も読まず、財産・名誉など世間のわずらわしいことにはいっさい関わらず、詩歌を詠んだり子供たちとかくれんぼをして遊んだり。派手な仕事はしなくとも、その精神の状態はまことに見事なものです。

現代の人々が良寛の生活になんとなく惹かれるのはなぜでしょう。たぶん、乏しい物的環境を悠然と超え、まさに王侯をもはるかに凌ぐような心の豊かさを保持し続けたところに親しみと共感を覚えるからではないでしょうか。

「活計なしと雖も、敢えて与に闘わしむ」とは、禅の公案集『無門関』の第十則「清税孤貧」に記された言葉です。これは人を驚かすような大きな働きはないけれども、その精神の状態はまことに見事なものであるという意味で、まさに良寛和尚の生き様と重なります。