『たそがれ清兵衛』の心の核にある「教養、度量、器量」
モノを持たず、欲も持たず、自由な精神を貫いたのが良寛和尚ですが、同じ時代に生きた武士の精神性をあらわす言葉に「武士は食わねど高楊枝」があります。単に「貧しくてもカッコだけはつけてしまう」と解釈をする人がいますが、もっと深い意味があります。この言葉は「武士は、たとえ貧しくても食えなくても、十分食べ足りたようなフリをして楊枝をゆうゆうと使い、身を清潔に保とうとする」武士の誇り高さをたたえたもので、日本人が本来持っていた心ばえを示しています。
江戸の中期以降ともなると貧しい武士が増え、俸禄をほとんどもらえない下級武士たちは内職をしたり、畑仕事をして何とか食いつないでいました。
「100石(俵)6人泣き暮らし」は武士の貧乏暮らしをあらわす言葉で100石の禄から藩に納める分を差し引けば、残りはわずか。家族と使用人がぎりぎり暮らせる程度しか手元に残らなかったそうです。しかし町人や商人のほうが経済的な余裕があったにもかかわらず、武士たちはプライドと高い精神性を保っていました。
藤沢周平原作の映画『たそがれ清兵衛』にも、こうした幕末の下級武士の世界が描かれています。主人公の清兵衛は、家族を支えるために城中の仕事が終われば“たそがれどき”にさっさと帰宅し、夜は虫かご作りの内職に励み、庭に畑を作って野菜を育て、いつもほころびた着物を着ていました。ただし、心は決して貧しくありません。畑の野菜や草花が日々育っていくのを見ては楽しみ、娘が成長していくのを楽しみ、貧しいながらも日々の生活を楽しんでいました。
経済的に苦しくとも、たとえ粥をすすりながらでも、武士が誇り高く生きられた背景には、やはり精神的な修業の積み重ねがあったのでしょう。彼らは心の核となる「教養、度量、器量」という財産を内面に備えていました。その財産を活かして草木をしみじみ味わったり、これを題材に気の利いた俳句や和歌を詠むこともできました。それが武士としての生きがいに通じていたのです。
また、当時はお金を儲ける人が敬われていたわけではなく、お金のある、なしで勝ち組・負け組の線引きをするという発想もありませんでした。物質的な富はなくても高い教養を身につけた武士は、尊敬の的となっていたのです。心の核である教養、度量、器量がないとついお金やモノに心が引きずられて貧しくなってしまいます。貧しいことを「不幸」や「負け」とすぐ結びつけてしまう心の習慣によって、苦しみが生まれます。かつて、作家の司馬.太郎氏は、「規範がないことがこの国の悲劇である」といっていましたが、その「規範」とはいまの日本人がなくしてしまった信念、志、道義のようなものです。いまこそ見直していきたいのがこの規範、「武士は食わねど高楊枝」に見る日本人の精神なのです。