「二元論的思考」から自由になれば、心は定着する

お金やモノに流されずいつも清々しく豊かな心を持ち続けるということは、できそうでなかなかできないことです。なぜなら、わたしたち人間は「二元論的思考」をする生き物だからです。二元論とはモノと心、善と悪、金持ちと貧乏、好きと嫌い、失敗と成功、エリートと落ちこぼれ、勝ち組と負け組というように対立する概念で物事を捉えることで、白と黒の間のグレーゾーンはありません。

この二元論的思考が根底にあると、私たちは凝り固まった小さなモノサシや自分の価値観に振り回されることになります。「富と貧」「勝ちと負け」を区別して比べる心です。両者を対極において見るために「勝ち」になれない自分が苦しくなってしまうのです。

しかし、「AかBか」と分けて比較したり、「Aのほうがいい」「Bのほうがいい」と決めつける思考法のクセは、変えたいと思っても一朝一夕でチェンジできるものではありません。30歳の人なら、その年齢分だけ同じ価値観の中で生きてきたのだから無理もないことです。そこで、二元対立の中でさ迷うことになります。目に見えない「二元対立の檻」を気にして周囲をキョロキョロしているうちに本来の自己を見失い、不安に満ちた生活を強いられることになるでしょう。

元来、禅の世界では二元対立を嫌い、排していきます。そして絶対の主体性を目指します。ここで強調しておきたいのは、皆さんがとらわれている考え方、判断の仕方などは、実はすべてあなたの周りが勝手に創り上げた既成概念、いわば「雲」のようなものにすぎないということです。この既成概念による小さなモノサシを破壊しないかぎり、心の改革はなされません。

「モノ」や「お金」の量にかかわらず「なんだか満たされない」のは、物質社会がつくり上げた既成概念に縛られすぎているために、本来得ている働きがいや生きがいに気づけなくなっているからです。他人の常識、社会の常識を軸に物事を考えたり行動するために、内面が空虚になってしまうのです。

もちろん、人間が生活していくうえでモノもお金も欠かせません。なくては困るものです。科学と技術の発達に伴って便利なモノが大量生産されることは生活レベルを高め、人類全体の福祉の増進にも寄与することができます。モノやお金が幸せな気分を運んできてくれることも確かです。ただし、モノやお金は膨らみすぎると羨望や奪い合いの対象にもなり、欲望を際限なく膨らませていけば利己的な心が生まれます。少しでも多くのモノを自分で得ようとして対立や葛藤が生まれます。

こうなると、心の成長に歯止めがかけられ“マイナス成長”を始めることもあります。心がビンボーになったこの状態では、結局「○○があるから幸せ」というモノに操られた偽りの幸せしか得られなくなってしまいます。本当は幸福の決定権はモノにあるのではなく、やりがいや生きがいをつくり出そうとする自己の心にのみあります。そしてわたしたちの心が真に満たされるとき、モノと心は対立した関係ではなく一つになっているはずなのです。

たとえば秋、燃えさかる紅葉の美しさに惹かれ、路上で思わず足を止めることがあります。

「なんてきれいなんだろう……」

紅葉の風景に浸りきっているとき、五感がその色、香り、形をとらえ、深い安らぎに包まれます。そのとき、皆さんの心は周囲の自然と解け合い一つになっています。自然を愛し、自然と共に暮らした良寛さんは、このような時間をたくさん持っていたはずです。