秀吉に降伏→嫡男・信親を失う→後継者選びに苦悩
ところが、同じ1585年に秀吉は四国に侵攻、わずか1カ月で元親はあっさり降伏。阿波・讃岐・伊予の三国をまとめて没収され、手元に残ったのは、土佐一国だけだった。
十年かけて切り取った四国を、1カ月で吐き出す。このスピード感の落差こそ、元親という男の、そして、この後長宗我部家に起きることの、ある意味で予告編だったのかもしれない。
この後、秀吉に恭順した元親は1586年、嫡男の信親と九州征伐に出陣。しかし、その年の12月、軍監である仙石秀久の采配のもとで行われた戸次川の戦いで大敗、信親までをも失ってしまう。
嫡男として誰もが認める存在だった信親を失ったことで元親は新たな後継者選びで悩まされることになる。というのも、次男の親和は四国統一の過程で西讃の有力者だった香川之景の養子となり、四国征伐で香川氏が改易された後は土佐で暮らしていた。
江戸時代に成立した元親の伝記である『元親記』によれば、秀吉は親和(五郎次郎)を跡継ぎにするよう朱印状を出していたが、元親にはその気はなかった。そのことがショックだったのか、親和はついに病気になってしまった。
そうなってからようやく家臣の吉良五郎兵衛が、元親に朱印状のことを告げた。これを知った元親は「さてさて奥の深き人かな。御朱印の事今までに披露なし。国の儀はその方へ渡し候ふぞ(なんと奥ゆかしく思慮深い人物であったか。御朱印の件を今まで誰にも披露しなかったとは。土佐の国はそなたに譲るぞ)」と告げるが、時既に遅く親和は死んでしまったという(高島正重 著、土佐文学研究会 注釈『元親記』土佐史談会、1972年)。
家老の讒言で一族混乱、四男・盛親へ家督移譲
朱印状を元親にすら見せなかったとは、真実味に欠ける話である。この『元親記』には後継者選びに関する別系統の話も載っている。そちらでは、元親は、四男の盛親を跡継ぎとしたかったが、重臣次第だとして口には出さなかった。
そうしたところ家老の久武親直が、「吉良親実(元親の甥)は、土佐の豪族・津野氏へ養子に送り込んでいた元親の三男・親忠を当主に据えようとしている」と讒言した。長男・信親を戸次川で失い、次男・親和もすでに亡い以上、序列からいえば親忠こそ次の当主として真っ先に名の挙がる立場である。その親忠を担ぎ上げようとした張本人とされたことで、親実は切腹に追い込まれた。
これは家中でも衝撃だったのか、親実は死後現在まで怨霊伝説として名前を騙られている。四国でよく知られる怪異である七人ミサキは、親実とその主従の無念の死に由来するものとされている。
ただ実際のところは、津野氏と吉良氏は土佐国内において長宗我部氏と同等の勢力を持つ国人であり、その勢力が結託し拡大することが警戒されたのではないかと考えられている(平井上総編『戦国武将列伝10 乱世150年を彩った郷土の人物伝 四国編』戎光祥出版、2022年)。
ともあれ、元親が盛親に家督を譲ったのは文書からは1594年頃と考えられている。しかし、家督相続は完全なものではなく、この後も重要案件に関しては元親の文書が見られる。この背景には、いまだに長宗我部氏内部には対立が残っていたためとみられている(津野倫明『長宗我部氏の研究』吉川弘文館、2012年)。

