性急さが、家督の資質を疑わせたか
津野は文書を基に、元親から盛親への権限移譲過程の中で、盛親の発給文書からは性格の性急さがみられることを指摘し、慶長の役の際に臼杵城主・太田一吉の軍医・従軍僧として渡海した慶念の人物評である「しとく(しとしと)とのへたまハんハ土佐のかミ〔土佐守(元親)という人は、物事をゆっくりと焦らず、しかし極めて綿密かつ確実に行うお方だ〕」と、対比して、こう記している。
こうして関ヶ原の戦いでは西軍につき、敗戦後は改易されることになる。西軍に属したとはいえ、盛親は戦後いち早く大坂まで出向き、家康への謝罪と土佐一国安堵の嘆願を行っていた。それでも改易は避けられなかった理由については、長らく「盛親が家臣・久武親直の讒言により兄・津野親忠を殺害し、これが家康の怒りを買った」ためとされてきた。
しかし、平井上総「関ヶ原合戦と土佐長宗我部氏の改易」(『日本歴史』718号、2008年)は、一次史料の検討から、より根の深い理由を指摘している。
詫びを入れながら家中を抑えられない当主
盛親は関ヶ原からの帰国後、1600年10月末から11月上旬にかけて早々に大坂へ上り、家康の家臣・井伊直政やその配下の鈴木重好らを通じて謝罪を申し入れ、土佐一国だけでも安堵してほしいと嘆願していた。史料からは、この段階で徳川方が一定の温情的な扱い、すなわち「御堪忍分」を与える方向で検討していた形跡すら窺える。つまり、頭を下げて回っていた盛親個人に関しては、まだ交渉の余地が残されていたのである。
ところが、土佐ではとんでもないことが起きていた。
本拠地の浦戸城を受け取るために派遣された鈴木重好らに対して、浦戸城では抗戦継続を主張する家臣団が実力で城の引き渡しを拒み、明け渡し役の使者を迎え入れようとしなかったのである。この浦戸一揆は、今後の身分確保などさまざまな不安から起こったものだが、いずれにしても明白な公儀に対する反抗であった。なにより、家康の側からみれば謝罪の言葉と、家中の実際の統制状況がまったく一致していないという許しがたい状況だった。
このように、改易の決め手になったのは、久武親直の讒言に端を発する一族間の粛清劇そのものというより、「詫びを入れておきながら家中も抑えられていない」という、統治能力そのものへの根本的な不信だったというのが、平井の見解である。

