アメリカの大学へ転学、最初の結婚

学習院大学哲学科に進んだものの、父のニューヨーク支店長就任を機に渡米し、名門サラ・ローレンス大学に入学する。だが学校では孤独で、両親ともうまくいかず、ひとりでマッチを擦っては炎を眺める日々だった。この体験は後の「ライティング・ピース(火を灯す作品)」につながった。

大学3年でシェーンベルクらの前衛音楽に触れた洋子は、ジュリアード音楽院の学生だった一柳慧いちやなぎとしと恋に落ちる。両親は猛反対したが、やがて折れた。二人はマンハッタンの高級ホテルで式を挙げ、ロフト(倉庫を改装した住居)に移って前衛芸術にのめり込む。洋子にとって一柳は初めての理解者だった。

前衛芸術のパフォーマンスを始める

1958(昭和33)年、夫婦で参加した作曲家ジョン・ケージの実験音楽ワークショップをきっかけに、洋子は「インストラクショナルズ(指示、説明書)」と呼ぶ作品の着想をノートに記し始めた。踏まれるための絵画や、歩いた跡に豆を一粒ずつ落としていく作品など、のちにコンセプチュアル・アートと称される表現の原型である。

だが、経済的には常に困窮していた。一柳にはピアノ伴奏のアルバイトがあったが、洋子はウェイトレス、習字や折り紙、民謡を教えるなどして食いつないだ。それでも、ロフトを開放して週末ごとにパフォーマンスを行った。大抵は観客がいなかったが、著名な芸術家やギャラリストも足を運んだ。前衛芸術家ジョージ・マチュナスと激しい恋愛関係に陥ったのもこの頃のことだ。

1961(昭和36)年、一柳が帰国し、事実上別居となる。洋子はニューヨークに残って発表を重ねたが、満足できる評価は得られなかった。

酷評され孤立、睡眠薬を過剰摂取

翌年、弟の結婚式を機に一時帰国した洋子は、両親が所持する渋谷の高級マンションに住み、来日したケージらと草月会館でパフォーマンスを行った。が、これも酷評され、ケージのアイデアを盗用したとまで言われた。なによりつらいのは、批評家の多くが一柳の知人だったことだ。夫婦でパーティーに呼ばれても、一柳の足を引っ張るのを恐れて洋子だけが断った。

男性中心の日本の美術界に居場所を見いだせず精神的に追い詰められた洋子は、睡眠薬を過剰摂取して入院する。その病室を見舞ったのが、洋子の作品に関心を寄せてニューヨークから来日した美術大学生のトニー・コックスだった。孤独な洋子にニューヨークの思い出を語ったことで、二人は急速に近づくこととなる。