※一部、書籍の引用部分に差別的な表現があります。発行当時のまま掲載しました。
男との関係に疲れ、出した手紙
「近代詩人」が解散したため、1948(昭和23)年に玲子は東京の「日本中央文学会」に入った。あるとき、気まぐれに同人で新潟県柏崎市に住む山本謙に手紙を出した。謙は22歳の高校教師でやはり美青年だった。玲子はほんの遊びのつもりだったが、謙は休みのたびにやってきた。柏崎の浜辺で寄り添ううち、玲子も本気になった。やがて結婚話が持ち上がったが、謙の家族の猛反対に遭った。玲子は遺伝のこともあって子どもを作らないつもりだったが、謙は障害があってもいいから子どもが欲しいと言った。玲子は本当の差別を知らない謙に憤った。二人は別れるしかなかった。
玲子は何度目かの厭世観に見舞われ、死のうと思った。でも死ぬからには詩人らしく大見得を切りたいと思った。「近代詩人」のころに男たちと遊びまわる玲子を寂しげに見つめる渋谷正という青年を思い出し、彼の住む高知県に手紙を出した。
「拝啓、お元気ですか。つね日頃、いっておりましたように、あなたとは寝ないが、あなたのですますくが美しいから、一緒に死のう。生きている時は別だが、死ぬ時は一緒だという約束を果たしたく存じます。いやならいやといって下さい。いえば、ストトンでよそ捜す。ま、なるべく、色よい返事頼んまっせ。お礼に、寝てやってもいいです。敬具」。
そろそろ返事が来る頃だと思いながら売店に出ていたら、肩を叩かれた。渋谷だった。手紙を受け取ってすぐに出てきたのだった。
「死ぬ時は一緒」という約束が…
「返事は」「来たのが返事だ」「うわあ。ありがとう。何で死ぬる」「なるべく痛くないのがいい」「じゃあアドルムか。給料前だ、銭がねえ」話しているうちに玲子は死への気持ちがわずかに揺らいだ。まだ22歳、もっと男を抱きたいとも思った、それを見た渋谷は「死にたくなくなったんだな」と言い、立ち去った。1時間ほどして戻ってきたと思ったら突然倒れた。一人で決行したらしかった。駅員たちは慌てて病院に運び込んだが、玲子はそれをみても何とも思わなかった。
見舞いに行くと、渋谷はこんこんと眠っていた。枕元に置かれたスケッチブックを開いたら、一面に「堤玲子」と書いてあった。病院の玄関で渋谷そっくりの父親に会った。「ご迷惑をおかけしまして」と言われ、いたたまれずに逃げた。

