伝説的な「ストリップの女王」
第1回:メリー松原(1930年1月2日~不明)
メリー松原の本名は松原栄子、1930(昭和5)年1月2日に東京下谷で生まれた。
兄弟構成などはわかっていないが、本人いわく父は大蔵官僚で、比較的裕福な暮らし向きだったようだ。ヌードダンサーといえば貧しさから脱ぐイメージがあるが(そしてそういう娘も少なくなかったが)、メリーはそうではなかった。
幼いころから踊ることが好きで、12歳頃にはエリアナ・パヴロバにバレエを習ったという。パヴロバはロシア革命を逃れて来日した「日本バレエの母」と呼ばれるロシア人バレリーナだ。メリーが12歳になる前年の1941(昭和16)年に慰問先の南京で客死しているが、数え12歳ということなら最晩年に間に合う。
その後、新宿の角筈にあった精華高等女学校に通い、16歳のころに早大生相手に初恋を経験(後に相手は沖縄戦で戦死)。1944(昭和19)年3月に女学校を卒業すると「徴用逃れで」貴族院速記養成所を出て1年ほど(半年説もあり)国会で速記者をした。父は、これでいいところへお嫁に行けると喜んだという。終戦の玉音放送は速記の練習中に聞いた。なお、『貴族院速記練習所参議院速記者養成所五十年史』を繰ってみると、松原栄子の名前はない。中退者、辞退者も細かく記載されていることから、どうやらここを出たわけではなさそうだ。
終戦後は進駐軍に反発したが…
終戦を迎え、速記者として議事堂に通う日々が始まったが、わが物顔で闊歩しては女性たちに口笛を吹くGI(進駐軍のアメリカ兵)たちにいらだった。戦中は威張っていた日本人男性が彼らにペコペコしているのにも腹が立った。「何さと思ったわね。正直いって……あんたたちに負けたのは日本の女じゃない。男の兵隊なんだって、単純に思ったの」と後にメリーは語る。そのうち、地味な仕事に飽きて速記はやめてしまった。
1946(昭和21)年3月30日、メリーの目に「アーニーパイル劇場専属舞踊団員募集」という新聞広告が飛び込んできた。アーニー・パイル劇場は有楽町にある元東京宝塚劇場、1945(昭和20)年10月にGHQに接収され、この年に沖縄戦で亡くなったアメリカ人ジャーナリスト、アーネスト・パイルにちなんで改称された進駐軍向け慰安施設である。日本人立ち入り禁止(オフ・リミット)だが、日本人職員は最大時約650人いたといわれている。


