アーニー・パイル劇場のダンサーに
2月に日劇や松竹のダンサーを集めて第1回公演「ファンタジー・ジャポニカ」を開催したものの専属ダンサーの常設が課題となり、広告を出したのだ。
募集要項には「歌手・踊子(男・女)数十名(素人可)五尺二寸以上(約158センチ以上)」とあり、審査員として伊藤道郎、東勇作、花柳壽二郎など8人が発表された。
伊藤道郎は1911年に19歳で渡欧し、パリ、ドイツ、英国で舞踊と前衛芸術に触れたのち、アイルランド人作家イェイツと能研究を行った国際的ダンサーである。渡米後は舞踊家・演出家として活躍し、ニューヨークやハリウッドでスタジオを開き、ブロードウェイでも振付師として活動する。第二次大戦中は日系人として強制収容され、1943(昭和18)年に帰国。経歴を買われてアーニー・パイル劇場に召喚された。
面接で応募動機を聞かれたメリーは「給料がいいからです」と明言し、体つきを誉められ、「女学校時代からオッパイだけは大きくて……身体検査が大きらいでした」と答えて合格。3日続いたテストで採用された一期生は女性60人、男性10人だった。
両親は「外人に裸踊りを見せるな」
喜んだのもつかの間、親には「何が悲しくて外人に裸踊りを見せなくちゃならないんだ」と泣かれた。露出度の高いレビューの衣装は両親にとっては裸同然だった。
アーニー・パイルの女性ダンサー「アーニエッタ」たちには、タップダンスをはじめとする厳しい練習が待ち受けていた。通例では数日の練習で本番に臨んでいたが、ここでは必ず1カ月は練習に充てられた。本番のショーは月に10日ほどで給料は3000円、若い女性にしては高い方だったが、子どもを抱えた未亡人などは急激なインフレに対処できず、途中で脱落した。
メリーは生活の心配はなかったものの先生や先輩のしごきに耐えかねた。ダンサー仲間からもっと稼ぎのいい仕事があると誘われ、あっさり舞踊団を辞めて日本演藝社に入社。GIの運転するトラックに乗って米軍基地を回った。このころ出会ったのが、同じアーニー・パイル舞踊団出身のタップダンサー、矢野英二だった。
矢野は戦前は日劇ダンシングチームにおり、戦後満州から引き揚げてアーニー・パイル舞踊団に入団、その後はフリーランスで活動していた。二人は親しくなり、新宿や銀座で映画やショーを見ては勉強した。
1947(昭和22)年1月15日、メリーの運命を変える出来事が起こる。
