田原坂の戦いで桐野利秋と対決
良光にとっては、かつての敵、新政府軍の中心人物だった薩摩の西郷隆盛が起こした反乱。だから、奮闘したのだろうか。激しい銃撃戦となった「田原坂の戦い」(熊本県)で一隊を率いた良光は、反乱軍の指揮官・桐野利秋の馬を奪ってみせたという。このとき銃創を受けたらしい。
その勇気ある功績が認められて、少佐に昇進した。その後、西郷たちが籠もる鹿児島の城山まで南進し、最前線で戦った。
雅との結婚は、西南戦争が終結した翌年。良光の足の太ももには銃弾が残ったまま、手術などで取り出すこともできなかったという。兵隊としては勤務不可能になったのか、明治13年(1880年)には陸軍の戸山学校(東京都新宿区)の教官になる。
ところが、良光の足の傷はしだいに悪化し、仙台に異動となったあと、明治16年(1883年)10月、療養願を提出し免職。12月5日、衛戍病院にて死去した。享年34歳もしくは35歳だった。
彼との間に一男一女をもうけた雅は、25歳の若さで未亡人になってしまったのだ。そのとき、長女はまだ4歳、長男は2歳だった(『別冊太陽 大関和 明治のナイチンゲールたち』)。
夫を失った後悔から看護婦に
わずか5年ほどの結婚生活だった。
雅は夫を失ってから桜井女学校附属看護婦養成所に入ったが、看護婦を志したのは、傷に苦しむ夫をうまく看護してあげることができなかったという後悔からだったという。「風、薫る」のりん(見上愛)のモチーフとなった大関和と出会うのも、ドラマとは順序が逆で、それからの話である。
鈴木雅と良光夫妻について残っている記録は少ない。雅は和のように本なども出していない。しかし、雅がいかに亡き夫を愛していたかは、25歳で死別したのにその後の生涯、再婚しなかったこと、40代で早くも看護婦の仕事を引退した後、かつて良光と新婚生活を送ったという京都へ引っ越したことで推察される。
京都へ移住したのは病弱な息子のためでもあったという。仕事では看護婦派遣の組織「慈善看護婦会」を立ち上げて成功させるなど、当時の女性としてはマネジメント能力を大いに発揮した人だったが、私生活ではシングルマザーとして2人の子を育て上げるだけで精一杯だったのかもしれない。ただ、生活にかかるお金は、軍人だった夫の遺族年金が支給され、困ってはいなかったという。


