戦国一の美女の「悲劇的な最期」
その後、お市と三姉妹は、信長の居城・岐阜城に入ったのち、信長の弟(お市の兄)・信包の居城・伊勢上野城(三重県伊勢市)に移ったとされています。
しかし、天正10(1582)年、本能寺の変が起き、信長がその激動の生涯を終えると、お市の運命も、また大きく変わってしまいます。
信長の後継の座をめぐって、秀吉と柴田勝家が対立すると、勝家と結んだ信長の三男(お市の甥)・信孝の意向もあり、お市は3人の娘を連れて勝家のもとに再嫁したのです。そうして、豪壮な勝家の居城・北の庄城(福井県福井市)に入ったのもつかの間、勝家と秀吉の戦いが本格化し、勝家は敗れてしまいます(賤ケ岳の戦い)。
辛うじて勝家は北の庄城に戻りましたが、豊臣軍は引き続き城を囲んでしまいます。秀吉によって、またもお市のいる城は落とされることになります。この時、お市は小谷城落城の時とは違う行動に出ました。十分に成長した娘たちだけを逃がし、自身は夫・勝家とともに自害することを決めたのです。実家の都合で好きでもない男の嫁になり、二度の落城を経験した戦国一の美女・お市は、落城の度に夫を亡くし、自身の命までも城とともにむなしく灰となる道を選んだのです。
室町幕府の名家に嫁いだ「もうひとりの妹」
信長とお市の妹・お犬も、美女の誉れ高き女性でした。生年は不詳ですが、「犬」という一風変わった名前は「戌年」に生まれたからとする説もあり、それに従えば天文19(1550)年の生まれで、信長より16歳、お市より3つ年下ということになります。
そんなお犬は、信長が尾張国を統一して間もない頃、佐治為興(信方)という武将のもとに嫁がされました。佐治氏は知多半島に本拠を構えており、彼らが擁していた水軍を信長が重視して関係強化を図るために妹のお犬を嫁に出したともいわれています。
ところが、この佐治為興は、信長の命により伊勢長島の一向一揆鎮圧に出陣し、天正2(1574)年、むなしく討ち死にしています。まだ22歳の若者だったといわれています。政略結婚とはいえ、仲がよかったともいわれるお犬の心痛は、いかばかりのものだったでしょうか。
しかし、信長は、そんなお犬の心を知ってか知らずか、天下に美女として知られたこの妹を、再び政略のために利用します。今度の結婚相手は、細川昭元です。
細川氏は、室町幕府で将軍を補佐する管領職を長く務めていた名家です。事実、昭元の父・晴元も管領職についていました。
とはいえ、当時、室町幕府の権威は地に落ちていました。それどころか、天正元(1573)年、信長は自身で将軍・足利義昭を京から追放し、室町幕府は事実上崩壊していたのです。お犬が昭元に嫁いだのは、それから数年後のことだといわれています。

