なぜ死を覚悟すると人生が輝き出すのか

死は誰にでも訪れるものであり、いずれ自分も当事者になる。頭では理解していても、いざそのときのことを考えると不安になるものです。死と向き合うのは怖いので、そんなことは忘れたふりをして、日々の生活を穏やかに過ごしたいと思う人もいるでしょう。もちろんそれも一つの生き方です。

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一方で、哲学者のハイデッガーは、死から目を背けることを「非本来的」な生き方であると指摘しました。人間は必ず死ぬという運命を自覚的に受け入れる「先駆的覚悟」を持つからこそ、自分が存在する意味や価値を理解し、「本来的」な生き方ができると説いたのです。その点で言えば、かつての日本は、先駆的覚悟が文化として根付いた国でした。それを象徴するのが、『葉隠はがくれ』にある「武士道といふは、死ぬ事と見附けたり」という一文です。

いつ死んでもいいという覚悟を決めれば、むしろ気持ちが楽になり、余計なことを考えず日々の務めを存分に果たせる。つまり死を意識することは、決して悲観的でも後ろ向きなことでもなく、より良く生きるための文化的作法として共有されていたのです。

その典型と言えるのが「辞世の歌」です。死を前にして歌や句を詠よむことは、日本の伝統文化として古くから受け継がれてきました。あらためて考えると、歌を詠むという行為は、この世に別れを告げる作法として実に美しいものです。そこで今回は、日本の歴史に名を刻んだ人物の歌を集めた『辞世の歌』から、印象的なものをご紹介しましょう。

辞世の歌といえば、吉田松陰しょういんの「身はたとひ武蔵むさしの野辺に朽ちぬとも留とどめおかまし大和魂やまとだましい」、豊臣秀吉の「露と落ち露と消えにしわが身かな浪速なにはの事も夢のまた夢」などが有名ですが、本書に収録された歌はとても多彩です。死期が迫る中で詠むのですから、さぞ重々しい歌が並ぶかと思いきや、驚くほど軽やかだったり、ユーモアさえ感じさせるものも少なくありません。

「この世をばどりゃお暇いとまと線香の煙とともにはい左様さようなら」

どりゃ、そろそろこの世をお暇しましょうかね。では線香の煙と共に、ハイ、サヨウナラ。こんな調子です。もうすぐ死ぬ人間にしてはあまりに軽く、しかも「はい左様なら」の「はい」には、線香の「灰」がかかっている。要するにダジャレです。

誰がこの歌を詠んだかといえば、『東海道中膝栗毛とうかいどうちゅうひざくりげ』の作者である十返舎一九じっぺんしゃいっくです。あのドタバタ劇を書いた人なら、こんな辞世の歌もありえると納得できます。死の間際でもこれくらい飄々ひょうひょうとしていたいものだと思う人も多いのではないでしょうか。

十返舎一九のイラスト
「この世をばどりゃお暇と線香の煙とともにはい左様なら」
十返舎一九● 戯作者、絵師(一七六五〜一八三一)

一九とはまた別の方向に吹っ切れているのが、この歌です。

「我死なば焼くな埋めるな野にすてて飢うえたる犬の腹はらをこやせよ」

(構成=塚田有香 撮影=川しまゆうこ イラストレーション=米山夏子)

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