安定の日々を送る人に間違いなく刺さる物語

今の会社に大きな不満はないし、給料も人間関係も悪くない。居心地の良さに慣れきった自分にふと気づき、「ぬるま湯に浸ったままでいいのか」と悩む中高年は多いのではないでしょうか。「本当は別の仕事に挑戦したかったんじゃないか?」「本当は起業したかったのでは?」と自問自答し、焦りを感じることがあるかもしれません。

そんな人にお薦めしたいのが、米国の小説家ジャック・ロンドンの代表作『野性の呼び声』です。19世紀末にゴールドラッシュに沸いたカナダとアラスカの国境地帯を舞台に、飼い犬として恵まれた環境で育ったバックが、数奇な運命を辿って野生の本能に目覚める姿を描いています。

本作が長く読み継がれる名作となったのは、バックの物語を人間に置き換えて読むことができるからです。文明化された快適な生活に慣れきった主人公が、苛酷かこくな環境に放り出され、危機に追い込まれながら自分の中に眠っていたポテンシャルを目覚めさせていく。ぬるま湯に浸っている自覚がある人には、間違いなく刺さるストーリーです。

生まれたときから裕福な飼い主の屋敷で暮らしてきたバックは、ある日突然、金に困った庭師の助手にさらわれ、売り飛ばされます。犬の販売業者の手に渡ったバックは抵抗を試みますが、棍棒こんぼうでたたきのめされます。

飼い犬として大事にされてきたバックは、人間からこれほど酷い扱いを受けたことは一度もありませんでした。この衝撃的な経験から、彼は「棍棒を持った人間には勝ち目がない」と深く肝に銘じます。これまでにない危機に直面したことで、バックは生まれて初めて「力が支配する世界で生き抜くにはどうすべきか」という教訓を学んだわけです。

その後、バックは別の男たちに買われ、北方地域でそり犬として働くことになります。しかし雪を見るのも初めてのバックは、極寒の地でどうやって眠ればいいのかさえわかりません。そこでチームメイトであるほかの犬たちを観察し、彼らが雪を深く掘った穴の底で暖をとりながら寝ていることを学びます。

「また新たな教訓。なるほど、ではこんなふうにしてみんなは眠るのか」

バックは同じように穴を掘り、ようやく眠りにつきますが、ふと目覚めると夜間に積もった雪で穴が覆われ、自分が閉じ込められそうになっているのに気づきます。その瞬間、大きな恐怖がバックを襲いました。それは「罠わなにかかることにたいして、野生のものがいだく恐怖」であり、「彼がいつのまにか自分本来の生をさかのぼり、先祖のそれへと逆行しつつあるというあかし」でもありました。

罠というものの存在すら知らなかったバックが、動物の本能でその恐ろしさを理解し、自分を脅かすものへの嗅覚に目覚めていく。彼が野性に返り始めたことを象徴する場面です。

「こうしたことを彼は経験から学んだだけではない。長らく眠っていて、いまようやくよみがえってきた本能、それからも学んだのだ」

(構成=塚田有香 イラストレーション=米山夏子)

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