幸せいっぱいの妻が抱える重大な秘密

相手の性別や年齢などの属性だけで「こういう人」と決めつけ、勝手なイメージや固定的な役割を押し付ける。こうした無意識の偏見は、今では社会から取り除くべきものとして広く認識されつつあります。昭和の職場では「お茶汲みは女性がするもの」とされていましたが、令和に上司がそんな発言をしたら大問題です。

こうした変化は、先人たちによる偏見や差別との闘いの果てに得られたものです。近代に入ると世界各国で女性解放運動やフェミニズム運動が盛んになりましたが、この流れを推し進める契機になった歴史的作品が、ノルウェーの劇作家イプセンによる戯曲『人形の家』です。1879年に出版された本作は、当時の社会に大論争を巻き起こしました。なぜなら人々が抱いていた「女性とはこうあるべき」というイメージを打ち砕く内容だったからです。

先に結末を明かすと、弁護士の従順な妻として幸せに暮らしていたはずの主人公ノーラが、最後は夫と3人の子供を残して家を出ていきます。19世紀の一般的な価値観からすれば、「とんでもない女だ」というわけです。一方で、女性の自立を求める人たちからは、多くの賛同と支持を得ました。以前この連載で紹介した同時代の英国小説『チップス先生、さようなら』でも、チップス先生の妻がイプセンの作品を愛読していたように、国境を超えて社会現象になるほど大きな影響を与えたのです。

物語の前半では、ノーラの結婚生活はうまくいっているように思えます。夫が銀行の頭取に就任することが決まり、ノーラも弁護士を続けるより生活が安定すると大喜びです。夫も妻を「おれのかわいいノーラ」と呼び、愛情を注いでいるようです。

「本当に、何てすばらしいんでしょう、仕合わせに暮らせるっていうことは!」

幸せを噛み締めるノーラでしたが、実は重大な秘密を抱えていました。かつて夫が重病を患い、多額の療養費が必要になったとき、夫に内緒で知人から借金をしたのです。しかも借用証書のサインを偽造するという違法行為まで犯していました。

法律の知識がないノーラはそれが罪になるとは知らず、むしろ自分の才覚で夫の命を救ったのだと密かに自慢に思っていたほどでした。しかし借金相手の知人から、ある要求を受け入れなければ過去の犯罪行為を夫に暴露すると脅され、ついに秘密がバレるときがやってきます。

ここからの夫の豹変ひょうへんぶりは、なかなかの見ものです。「偽善者、嘘つき」「犯罪者!」と妻を罵倒ばとうし、「お前はおれの幸福をめちゃめちゃにしちまった」「おれは破滅するんだぞ、それもみんな、無責任な女のせいだ!」と喚わめき立てます。もし知人がノーラの悪事を世間に公表すれば、夫の自分まで犯罪に加担したと疑われ、せっかく手に入れた銀行の頭取の地位や名誉が危うくなるのだから大慌てです。

ところが知人が改心し、暴露される心配はないとわかった途端、夫はコロッと態度を変えて「ああ、かわいいノーラ」と再び甘い声で妻に囁ささやきます。

「お前のしたことが、みんなおれの愛情から出たことはわかっているんだ」と勝手に納得し、「ただ、ちょっと判断力に欠けていたので、やり方を間違えた、というだけだ」「そういう女の無力さは、二倍も魅力的なんだ」と上から目線で妻をなだめ、「おれはお前を許したんだ」と事を収めようとします。

(構成=塚田有香 撮影=川しまゆうこ イラストレーション=米山夏子)

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