日本は学歴社会ではなく「入試歴社会」である
最近、ユーチューブで「wakatte.tv」というチャンネルが人気を集めているそうです。街頭インタビューで若者をつかまえては「最終学歴はどこか」と聞き、「Fラン大学じゃないか」などと嘲笑し、学歴で人間の価値をランク付けするような企画を繰り返しているといいます。さらには、被災地にある大学を不謹慎な言葉で揶揄することもあるそうです。これが「バラエティ」として消費されているのです。
なぜ、他者の学歴を露悪的に嘲笑するようなコンテンツが成立してしまうのか。それは、日本人が異常なまでに「学歴」というものに執着し、コンプレックスや優越感を抱えているからです。しかし、ここで根本的な事実を明確にしておかなければなりません。それは、日本は決して「学歴社会」などではないということです。日本社会を支配しているのは、単なる「入試歴社会」にすぎません。
国際的な基準で見れば、「学歴」とは文字通り「学習の履歴」です。大学や大学院で何を専門に学び、どのような研究をし、修士号(マスター)や博士号(Ph.D.)をいつ取得したか。それが世界で通用する「学歴」です。しかし、日本の社会や企業が長年評価してきたのは、大学で何を学んだかではなく、「18歳の春に、どの難易度の大学の入学試験を突破したか」という過去の一点の記録だけです。大学に入った後にどれだけサボろうが、中身のない4年間を過ごそうが、「東大に入った」「早慶に入った」という「入試歴」だけが、一生のパスポートとして機能してしまうのです。
この「入試歴」を測る絶対的な指標となっているのが「偏差値」ですが、これも極めて日本特有のガラパゴスな概念です。アメリカに偏差値という概念はありません。世界で評価される大学ランキングは、論文の引用数や研究の質、国際化の進み具合などを総合的に評価して決められます。この世界基準で見れば、日本人が神格化している東京大学でさえ、せいぜい30位前後にすぎません。
では、日本の偏差値とは一体何を測っているのでしょうか。それは人間の総合的な知性や、深い思考力ではありません。圧倒的な「記憶力」と、条件反射で正解を叩き出す「瞬発力」だけです。「これを丸暗記しなさい」という教育は、裏を返せば「その瞬間は何も考えるな」「馬鹿になれ」と言っているのと同じです。たまたまその記憶力と瞬発力に優れていた人間が偏差値のヒエラルキーの頂点に立ち、自分は優秀だと勘違いしたまま社会に出ていく。この構造は国家にとって大きな損失です。
もちろん、かつての日本社会において、企業がこの「入試歴」を重宝した時代はありました。戦後の高度経済成長期、日本の企業は潜在的な成長力に溢れていましたが、同時に質の高い労働力を大量に必要としていました。当時の企業は、大学での専門的な学びなど期待していませんでしたし、高等教育のレベル自体が必ずしも高くはありませんでした。
そこで企業は、若者を社内で一から教育し、自社のやり方を叩き込む方法をとりました。その際、企業が若者に求めたのは「教えられたことを素早く吸収する能力」と、「上司の言うことを素直に聞く従順さ」でした。入試歴の高さは前者の証明であり、体育会系出身者が好まれたのは後者の証明だったからです。東大の体育会系出身者が最ももてはやされたのは、極めて合理的な理由があったのです。
しかし、時代は大きく変わりました。マニュアル通りに動く従順な兵隊が価値を生む時代は終わり、自ら課題を設定し、ゼロからイチを生み出す独創性や、リスクをとって決断する力が求められる時代です。それなのに、いまだに記憶力と瞬発力だけで選抜された「入試歴エリート」たちが、霞が関の官僚機構の中枢を占めています。彼らもまた、国家公務員試験という「究極の暗記と瞬発力のテスト」を突破してきた入試歴エリートだからです。優秀さの使い道を完全に間違っていると感じることが多々あります。結局のところ、霞が関もまた、思考力よりもテストの点数で序列が決まる入試歴社会の延長線上にあります。
日本の入試制度は「一発勝負」であるがゆえに公平だと言う人もいます。例えばアメリカの大学は基礎学力を測る統一テスト「SAT」を何度も受験でき、一番いい点数を希望する大学に送ります。言い換えれば何度も受験料を払えたり、試験会場にも行きやすかったりする人に有利でしょう。ほかにもボランティア歴や表彰歴、そのほか課外活動など戦略的に獲得する必要があり、貧困家庭には不利に働くかもしれません。
しかし、記憶力や瞬発力には欠けるが、じっくりと深く物事を思考できる人間にとっては、一発勝負という現在の日本のシステムは極めてアンフェアです。たまたま当日の体調が悪かっただけで数年の努力が水泡に帰すシステムを、絶対的な評価基準として社会全体で妄信していること自体が異常なのです。
ハーバード大学が多様性を重視する理由
さて私が高校生だった頃、学校の教師からは東大を受けろと強く勧められました。毎年何人合格者を出したかという学校側の都合もあったのでしょう。しかし、当時の東大経済学部はマルクス経済学が主流でした。私は近代経済学を学びたくて、その中心であった一橋大学を目指しました。教師には「一橋に行きたい」と頑なに言い続けました。結果的にその年は東大の入試が学生運動の激化により中止になるという出来事がありましたが、兄からは「おまえはラッキーだったな」と言われたものです。自分の学びたいことを基準に大学を選んだことは間違っていなかったと、今でも確信しています。
かつて、ハーバード大学のヘンリー・ロソフスキー学長が私にこう語ったことがあります。「日本人は東大をエリートの頂点だと思っているが、ハーバードから見れば、東京大学は『東京にある大学』というだけで、大して特別な存在ではない」と。これは強烈な皮肉ですが、世界から見た日本の入試歴エリートの現在地を正確に言い当てています。
さらに彼は、ハーバードがなぜ多様な人種枠やスポーツ推薦枠を設けているかについて、「大学は一つの小さな『社会』でなければならないからだ」と明言しました。同じような偏差値帯で、同じ予備校で丸暗記の訓練を受けてきた均質な人間ばかりを集めても、そこにダイナミズムは生まれません。多様なバックグラウンドを持つ人々がぶつかり合い、全く違う視点から議論を戦わせるからこそ、真の知性が磨かれるのです。同じ偏差値ゾーンの人間だけを集めた集団は、本来の意味での「社会」を形成していません。だからこそ、そうした純粋培養された自称エリートが社会に出たとき、自分と異なる背景を持つ人々の痛みを想像できず、時に致命的な見当違いの政策を推進してしまうのです。
政治の世界を見渡しても、入試歴にとらわれない真のリーダーシップを発揮した人物は多くいます。例えば田中角栄氏です。彼は学歴を持たない“小学校卒”の叩き上げ政治家でしたが、大蔵大臣に就任した際、東大卒のエリート官僚たちを集めてこう言いました。「大臣室はいつでも開けておくから、いろいろな議論をしに来てくれ。君たちは東大を出て優秀なんだから、私にいろいろ教えてくれ。ただし、最後に決断するのは私だ」と。これこそが、真の政治のあり方です。入試歴エリートたちの知識を最大限に活用しながら、彼らにはできない「責任を伴う決断」を下す。ここに、18歳のときのペーパーテストの点数など入り込む余地はありません。
日本社会はいつまで、たった一つの偏差値という尺度で人間の優劣を測り続けるのでしょうか。その単一の尺度に固執する劣等感や優越感こそが、社会全体を窮屈で息苦しいものにしています。
記憶力と瞬発力だけでなく、失敗から立ち上がる力、異なる価値観をまとめる力、そして何より、前例のない課題に対して自らの頭で考え抜く力。そうした人間の価値を、より多角的で豊かな視点から評価する社会へと成熟していくことが、日本経済が再び活力を取り戻すための絶対条件なのです。
経済学者、慶應義塾大学名誉教授。1951年、和歌山県生まれ。一橋大学経済学部卒業。博士(経済学)。小泉内閣で経済財政政策担当大臣、金融担当大臣、総務大臣を歴任。
※本稿は、雑誌『プレジデント』(2026年10月30日号)の一部を再編集したものです。
検索時にプレジデントオンラインに関連する記事が表示されます




