煽り続けた「美談」の罪
しかし以降も、一人のエースが大会を投げぬいて大活躍するシーンは何度も見られた。1998年、横浜高は、春夏の甲子園連覇を果たす。エースの松坂大輔は両大会をほとんど1人で投げぬいた。
横浜高の渡辺元智監督は、春の大会後、松坂に1カ月のノースローを課したが、夏も松坂にマウンドをほぼ委ねた。夏の甲子園では、6試合のうち5試合で完投し、計767球を投げた。
8月20日、準々決勝の大阪代表PL学園戦は乱戦となったが松坂は延長17回を1人で投げぬいた。球数は250球に上った。翌21日の準決勝の高知県代表明徳義塾高校戦は9回の1イニングだけ投げ、さらに22日の京都代表京都成章高校との決勝戦ではノーヒットノーランを演じている。
翌日の朝日新聞の講評で記者の岸本千秋は「これには恐れ入った」と書いた。しかし、「健康への懸念」に言及した記事はほとんどなかった。
8年後の2006年、夏の大会で西東京代表早稲田実業高の斎藤佑樹は、1回戦から好投を続け、8月20日、エース田中将大を擁して史上初の「夏3連覇」に挑む南北海道代表駒大苫小牧高と決勝で対戦。試合は延長15回1対1で決着がつかず、翌21日の再試合で、早稲田実業は4対3で駒大苫小牧を下した。
医学界の警告を無視し続けた
駒大苫小牧は、田中のほかに菊地翔太という控え投手も投げたが、早稲田実業は斎藤が1人で投げ、甲子園での投球数は948球に達した。これは春夏通じて甲子園史上最多だ。
このときの朝日新聞の講評も、斎藤を「恐るべき体力、知力に精神力。早稲田実・斎藤の全身に蓄えたエネルギーに驚かされた」と書いている。この記事を書いた記者の井上明は、高校時代に北四国代表松山商のエースとして1969年夏の甲子園決勝で北奥羽代表三沢高の太田幸司と再試合を含む2試合で投げあっている。斎藤は、「ハンカチ王子」の称号をつけられ一躍アイドルになった。
高校生以下の野球選手の「投球過多」による健康被害については、すでに1970年代に、徳島大学医学部が県内の野球少年に実施した広範な調査に基づき、中学生以下の選手の「投げ過ぎ」は、OCD(離断性骨軟骨炎)の発症につながると警告していた。OCDは、深刻化すると手術が必要になる。放置すれば将来の運動機能に障害を残す危険性がある。

