右腕が「変な方向にねじ曲がっている」
1991年夏の甲子園では沖縄県初の優勝を目指す沖縄水産高が、2年連続の決勝戦に進んだ。しかし創部4年目の大阪代表、大阪桐蔭高に8対13で敗退した。
決勝戦後の表彰式で、沖縄水産ナインは、エース大野倫の右腕が「変な方向にねじ曲がっている」ことに気が付いた。大野は、沖縄に帰って医師の診断を受け、右ひじが疲労骨折していることがわかった。
大野は前年秋にエースになって以降、監督栽弘義の指示で連日200球、多い日には400球の投げ込みを続けていた。春先の熊本県招待試合でダブルヘッダーを2試合とも完投した翌日、練習でボールを投げたとたんに右ひじから「ブチッ」と言う音が聞こえた。
大野は「やってしまった」と思ったが、以後も一人で投げ続けた。夏の地方大会ではひじ痛に悩まされたが、鎮痛剤を注射して投げていた。夏の甲子園の投球数は773球に上った。決勝では13失点するも完投。この怪我で、大野倫は投手を断念することになる。
遅すぎた「メディカルチェック」導入
翌朝の朝日新聞で記者の山本敏男は「大野のひじ痛が完治しないまま終えたのは惜しかったが、はつらつとしたプレーで力を出し切った点を評価したい」と評した。しかし一部に大野の登板過多を批判する声も上がった。
大野倫の負傷を、日本高野連第4代会長の牧野直隆は深刻に受け止め、甲子園大会前に出場校の投手の肩ひじの「メディカルチェック」を導入することを決定。1年の試行期間を経て1993年夏の大会から、春夏の甲子園に出場が決まった選手は、大阪大学整形外科の医師らによる「投手の関節機能検査(メディカルチェック)」を実施することとなった。
また、94年の春の甲子園から、投手数の増加に対応するためベンチ入り人数は15人から16人に増えた。さらに阪神甲子園球場にはレントゲン室が設置された。
甲子園大会でのメディカルチェックは、あくまで「甲子園大会期間中の怪我、故障を防ぐこと」が目的ではあったが、各校の指導者は甲子園大会前に投手のノースロー期間を設けるなど、健康面に配慮するようになった。大野の怪我とその後の高野連の施策によって、高校野球界は初めて「選手の健康問題」が存在することを認識したと言っても良い。
