人間ごときを友にしなくてもいい
ここで、少し挑発的なことを言いたい。そもそも、人間ごときを友とすることに、そこまでの価値があるのだろうか。
古代ギリシアの哲学者プラトンの『饗宴』に、ディオティマという巫女が登場する。ディオティマはソクラテスに、愛(エロース)の奥義について教える。ディオティマによれば、愛には段階がある。最初は美しい肉体への愛から始まる。しかし、そこで止まってはいけない。次に、美しい魂への愛へと上昇する。さらに、美しい知識への愛へと進む。そして最終的には、「美そのもの」、つまり美のイデアへと到達する。
これは「ディオティマの梯子」とか「エロースの階梯」と呼ばれる有名な議論だ。ポイントは、特定の人間への愛に留まることは、まだ低い段階だということだ。本当に価値があるのは、個別の人間を超えた、普遍的な美や真理への愛なのだ。
つまり、プラトンに言わせれば、人間の友達に執着することは、まだ梯子の低い段階にいることを意味する。もっと高みを目指すべきなのである。
哲学者セネカの具体的な提案
古代ローマの哲学者セネカの『人生の短さについて』には、もっと具体的な提案がある。セネカは、人生は三つの時間に分けられると言う。過去、現在、未来だ。現在は短く、瞬く間に流れていく。未来は不確実で、訪れることさえ保証されない。しかし、過去は変わることも消え去ることもなく、確かに存在している。だから、過去を見失うことなく、過去とともに生きていけば、人生には豊かな時間が積み上げられる。
そして、セネカは過去の偉人たちの書に学び、話し合い、身の上を相談し、人生の模範とせよ、と説く。ゼノンやピタゴラス、デモクリトス、アリストテレスといった人たちを、友として持てと。
現在に生きる人間であれば、多忙で会えないこともある。その人との交際の中で、散財したり、身の危険が生じたりすることもある。しかし、過去の偉人は常に門戸を開いてくれる。来訪者に何かしら得るものを与えてくれる。重要なことから些細なことまで何でも話し合え、毎日、身の上を相談できる。真実を問えば軽蔑せずに教えてくれ、お世辞抜きで本心から褒めてくれる。そして、人生の模範とすることができる。
セネカの言葉を借りれば、過去の偉人を守護者とする人間には、「なんという幸せ、なんという魅力的な老いが待ち受けていることか」。

