海外から見た日本の不思議さ
日本の政策は、「今ある仕組みを改善する」ことには強かった。しかし、「今ある仕組みの一部を終わらせる」政治的な決断には弱かった。その結果、発電所や送電網の改革よりも、国民の服装や生活習慣を変える対策のほうが、目に見える形で繰り返されてきた。
そして生活者には、冷房を抑え、服装を変え、電気をこまめに消すことが求められた。
ここで、東京都の短パンが別の意味を帯びてくる。職員が短パンをはく一方で、石炭火力は動き続ける。そのアンバランスさこそが、海外から見た日本の不思議さなのかもしれない。
日本では、省エネファッションが導入されると、「おじさんの短パンはありかなしか」という議論が起きる。だが本当に議論すべきなのは、そこではない。
短パンを認めること自体が問題なのではない。猛暑のなかで、服装の自由度を上げることは当然だ。問題は、なぜこれほど暑くなっても、政策の焦点が個人の服装や冷房温度に置かれるのかということだ。
なぜ、エネルギー危機が起きても、石炭火力を減らしたり、送電網を増強する計画より先に、国民へ節電が呼びかけられるのか。
発電の構造の不都合を、国民の身体的な適応と日々の工夫で埋め合わせようとしているのではないか。
日本人の省エネ意識が足りないわけではない。むしろ、政治や制度が担うべき課題まで、個人の工夫と努力で補うことを求められてきた。
日本人は、もう十分に節電した
冷房の温度を気にし、不要な照明を消し、省エネ家電を買い、燃費のよい車を選ぶ。そうした努力を、日本人は何十年も続けてきた。
省エネは重要である。しかし、個人がどれほど節電しても、石炭火力を閉鎖することも、送電網を整備することも、再生可能エネルギーの許認可制度を変えることもできない。
いま、問うべきなのは、「自分には何ができるか」だけではない。
日本の省エネは、世界に誇るべき貢献だ。
しかし、省エネとは、基本的には今ある社会を効率よく動かすことだ。脱炭素とは、その社会を支えてきた仕組みの一部を終わらせ、新しいものに置き換える政治である。
国民にさらに我慢と工夫を求める段階は、もう終わりにしなければならない。
日本人は、もう十分に節電した。
次に変えるべきなのは、職員の服装でも、冷房の設定温度でもない。
石炭火力をいつまでにどう減らすのか。再エネの電気を運ぶ送電網を誰が整備するのか。既存の産業と雇用を、どう次の時代へ移行するのか。
今度は、政治が答える番である。

