「備中高松→姫路城」実際は約3日の行軍
服部はこれらの史料をもとにして、このような推論をしている。
6月4日に、清水宗治が切腹し備中高松城は開城、これで毛利との講和が成立する。この時点で、既に出発していた先遣隊は6日に姫路に入城する。続いて、秀吉の本隊は5日に陣を引き払い野殿から沼城へ、その後7日に姫路に入城したというものである。つまり、服部は、秀吉が6日に姫路に馬を入れたという記述は、秀吉自身のことではなく、秀吉の先遣隊のことを指して書いたものだと考察している。
自分の家臣の部隊だから、あながち間違いでもない。杉若無心書状の宛名である松井康之は、細川藤孝の家臣。ゆえに「我々はもう姫路まで到着しているぞ」と存在感を誇示してアピールする必要があったのだろう。いわば筆が走ってしまったわけだが、服部もこれを「ことばのあや」であると考察している。
わかるだろうか。備中高松城から姫路城までは、約3日かけての行軍だったわけだ。さて、交通機関が発達した現代では、これを早いとみるか遅いとみるか……。
スピードは“ごく標準的”だった
結論からいうと、ごく標準的な進軍である。
リュウ・ポール・カン・ハウ「ごく普通だった『中国大返し』―秀吉の行軍と他の行軍と比較―」(『紀尾井論叢』9号)は、様々な史料に見られる行軍速度から秀吉のものを比較している。
この論文は、江戸時代の軍法書『兵要録』、大日本帝国陸軍の『作戦要務令』、信長・武田信玄・上杉謙信の実際の行軍記録、さらにアレクサンドロス大王、カエサル、ナポレオン近衛軍、アグリコラのスコットランド遠征まで横断的に集めて、「歩兵・輜重込みの全軍行軍は、洋の東西を問わず一日20〜25キロが標準」としている。
つまり、はるかインドまで到達したアレクサンドロス大王も、行軍スピードで諸国を圧倒したナポレオンも、信長も秀吉も行軍スピードは変わらない。それは、食料や行軍隊列の長さ、体力の限界によるもの。ハウは数日なら強行軍も可能だがそれでも40キロ前後が限界だとしている。
実際、当時の道路は決して広くはない。そこに最大限広がったとしても行列は長大だ。どんなに歩調を合わせたとしても坂道や難所があれば前のほうからスピードが落ちていって詰まるので、そんなに早くは進めない。早めようとしたら先頭のほうは駆け足になってしまい、これまた体力が落ちて詰まる。だから、どんなに統制の取れた軍隊でも自ずと限界が出てしまう。

