「1日で姫路城まで」の無理筋

備中高松城から姫路までは約108キロ、光秀と決戦する山崎までは約230キロである。現代でこそ、新幹線なら駅弁を食べ終わらないうちに通過してしまう距離だが、当時は馬のほかは歩くよりほかはない。

ゆえに、行軍スピードに驚いてしまう。なにせ姫路城を目指すとして、備中高松城から沼城まででようやく3分の1(30キロ超)ほど。ここまで一日掛けて到達、悪天候で一日足止めされたのち、駆け抜けた。平地も多いが、備前と播磨の船坂峠付近はひたすら山道である。やはり、秀吉の信長への忠誠心が、逸る気持ちを抑えきれなかったのか。甫庵以降、これは秀吉の物語の中で、必ず描かれるエピソードとなった。

でも、やはりおかしい。道路が整備された現代でも「備中高松城から歩いて沼城まで行け」といわれたら難儀である。筆者なら吉備津駅(岡山県岡山市北区)あたりで「すみません、汽車に乗っていいですか?」と音を上げる。頑張っても、後楽園が見えたあたりで日が暮れそうだ。

だから、そもそも『太閤記』の話自体が眉唾なのではなかろうか?

これを検証した論文が、服部英雄「ほらの達人 秀吉・『中国大返し』考」(九州大学学術情報リポジトリ、2015年公開)である。この論文はタイトル通り、沼城から姫路城まで一日で駆け抜けたことを、ホラ話だと結論づけるものだ。

服部はまず、後世に書き継がれた『太閤記』や『秀吉事記』を一旦脇に置き、行軍のさなかにリアルタイムで書かれた手紙、つまり秀吉自身がその場で書いた文書だけを頼りに、日程を組み直している。

「高松城水攻築堤の図」。月岡芳年による錦絵。
「高松城水攻築堤の図」。月岡芳年による錦絵。(写真=月岡芳年作/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

手紙からわかった「丸一日早く動き出していた」事実

1通目は6月5日付、中川清秀(摂津茨木城主)宛の秀吉書状(梅林寺文書)。花押のある、正真正銘の秀吉自筆である。ここにはそう書かれている。

尚々、の殿(野殿)迄打入候之處、御状披見申候、今日成次第、ぬま迄通申候、古左(古田左助重然)へも同然候

ようは「なお、野殿まで来たところで、あなたの手紙を読んだ。今日はなりゆき次第で沼城まで行くつもりだ。古田左助にも同じことを言っておく」という事務的な連絡である。

野殿は現在の岡山市北区、備中高松から8キロ程度。JR吉備線ならば備中高松駅から3つ先の大安寺駅が最寄り駅となる。ここで矛盾が生じる。5日の時点で、秀吉はすでに8キロ先の野殿にいる。ところが、『太閤記』の記述では6日に高松を発ったという。出発日より前に先へ進んでいる。「6日出発説」は、これで崩れる。

さらに、服部はもう一通、6月8日付の杉若無心書状(松井猪助宛、松井家譜収録)を挙げる。

西国表之儀、存分之まゝ、両川人質定ふに相定、三ヶ国被相渡、去六日ニ至姫路、秀吉馬被納候

これも「西国のことはこちらの思い通りに片がついた。両川(吉川・小早川)から人質も取った。3カ国も放棄させた。去る6日、姫路に秀吉は馬を入れた」という連絡文だ。

『太閤記』の記述、これらの文書を組み合わせると時系列が無茶苦茶である。5日にまだ野殿にいた秀吉が、6日にはもう姫路にいる。それはそれでとてつもない移動距離だし『太閤記』の記述とは、まったく辻褄が合わなくなってしまう。