秀吉が“盛っていた”

その上で、ハウは5日の行軍開始から13日の山崎到着までを平均1日23.4キロと割り出している。実に、ごく普通の行軍である。

そして、ハウは騎馬であれば1日あたり40〜60キロ、条件があえば80〜90キロの移動も可能であるとする。そこで、先遣隊が姫路に馬を入れたのを自分のこととして書いたと解釈する服部に対して、ハウは、秀吉は馬で先行して後続部隊を待っていたのではないかと推論している。

服部とハウの論文で共通して指摘するのは事後に秀吉のホラが大きくなっていたということである。

服部が指摘するのは、本能寺の変から4カ月後、10月18日、信孝との関係が険悪になりつつあった秀吉が記した文書である。信孝の周辺にいた岡本良勝・斉藤利尭らに宛てた文書で、秀吉は「廿七里之所を一日一夜に姫路へ打入」と書いている。ようは高松から27里を一夜で駆け抜け姫路に到達したというわけだ。

ハウはこれに重ねて、別の文書で沼城から姫路まで「廿里」と記されていることを指摘する。ハウは、Googleマップで実測した場合、沼城と姫路城の距離は約71キロになるとする。江戸時代の里数でも17里以下である。

ハウは論文中で各研究者による目的地までの距離を一覧表にしているが、沼城から姫路城は最短で70キロ、最長でも77.9キロ……どうやっても27里にはならない。つまり、秀吉が自分の手柄を誇張する過程で、距離は伸び時間は縮んだというわけだ。

甫庵の『太閤記』など後世の資料は、こうした秀吉のホラ話を真に受けて記述したものといえるだろう。

大返しを“神業”にした司馬遼太郎

しかし、江戸時代はこの秀吉の行軍はさほど重視されていなかった。ハウが史料を洗い直したところ、江戸期の記録には「速かった」とはっきり書いたものがほとんど見当たらない。むしろ当時の読者が食いついていたのは、速度そのものより「秀吉が一騎駆けした」という騎馬先行の逸話の方だった。江戸の人間にとって、この事件の見せ場は「秀吉が颯爽と馬で駆けた」であって、「軍全体が神業的スピードで動いた」ではなかったのである。

なにより、この事蹟も「中国引返し」と呼ばれており「大返し」ではなかった。ハウによれば「中国大返し」の初出は1911年、福本日南の『英雄論』という書物だ。しかし、1970年代までは「引返し」のほうが主流で「大返し」はまったく定着していなかった。

これを逆転させたのが、あの司馬遼太郎のフィクションである。論文中でハウは次のように記している。

現代人の認識を位置づけたのは名作家司馬遼太郎であった。(中略)1966年から1968年まで連載された『新史 太閤記』では「いまでは京での流行語にすらなっている」と紹介し、1973年から1975年まで連載された『播磨灘物語』と1971年から連載された『街道をゆく』には秀吉自身が後日その名を使って生涯自慢したことになっている。
講談社『週刊現代』10月1日号(1964)より司馬遼太郎
講談社『週刊現代』10月1日号(1964)より司馬遼太郎(写真=PD-Japan-organization/Wikimedia Commons