「豊臣兄弟!」(NHK)で実際の火を使い、迫力の映像で描かれた本能寺の変。歴史研究者の濱田浩一郎さんは「大河ドラマでは明智軍が本能寺に火を放っていたが、信長が火を点けたという史料もある。寺が激しく焼け落ちたことが信長に味方した」という――。
月岡芳年画「大日本名将鑑 織田右大臣平信長」
月岡芳年画「大日本名将鑑 織田右大臣平信長」、明治11年(1878年)、ロサンゼルス郡立美術館所蔵(写真=PD-LACMA/Wikimedia Commons

NHK大河が描いた「本能寺の変」

大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)において小栗旬さんが熱演した織田信長。ドラマで描かれたとおり、天正10年(1582)6月2日、天下統一を目前にしていた信長は重臣・明智光秀によって討たれます。本能寺の変です。

信長とその後継者・信忠の死によって天下は大いに揺らぐことになりますが、光秀は結局、信長の遺体(首)を見つけ出すことはできませんでした。不意打ちのクーデターに成功した光秀の軍勢がなぜ信長の遺体を発見できなかったのでしょうか。諸史料を基に考察していきましょう。

まず、信長の一代記として著名な『信長公記』(著者は信長の家臣・太田牛一)には信長の死はどのように描かれているのでしょうか。同書は誤解や誤りもありますが、史料としての信憑性しんぴょうせいは高いとして歴史家からも重宝されています。

『信長公記』が伝えた信長の最期

ときの声を挙げて「御殿」へ鉄砲を撃ちかけてくる明智軍。それに対し、信長は最初、弓で応戦していましたが、弓の弦が切れてしまいます。その後、槍で戦っていた信長ですが、肘に槍傷を負います。引き退いた信長は側に付き従っていた女性たちに対し「急ぎ脱出せよ」と伝えた上で「殿中奥深く」に入ります。

これを同書は「御姿を御見せ有間敷あるまじきと思食され候歟」(お姿を見せまいと思われたのであろうか)と想像しています。「御殿」には既に火が掛けられており、それが迫っておりました。殿中奥深く入った信長は内より「御南戸」(御納戸)の戸口に鍵をかけて「御腹めされ」た――つまり切腹したというのが『信長公記』が記す信長の最期です。同書にはその直後に織田信忠に対し、家臣の村井春長軒父子らが「本能寺は早くも落ち、御殿も焼け落ちています」と走り伝える場面があります。本能寺が灰燼かいじんに帰したことが記されているのです。

「女たち」を寺から避難させたか

さて豊臣秀吉に近侍した大村由己が著した秀吉の伝記『天正記』の「惟任謀反記」には信長は明智軍の襲来に際し、広縁に出て、弓にて敵兵5、6人を射倒したとあります。その後、十文字の槍でもって数人の敵を倒したとのこと。しかし、数カ所の傷を負い、引き退きます。

『信長公記』では信長は女性を逃していましたが『天正記』では女性らをことごとく刺し殺したと記述されています。その後、信長は自ら御殿に火を掛けて「御腹を召されおはんぬ」――切腹したというのが『天正記』が記す信長の最期でした。信長が自ら御殿に火を掛け、切腹したと書かれているのです。『信長公記』とは内容が異なっています。