信長を見つけられず、焦った光秀
『祖父物語』にも、光秀は信長が本能寺から脱出したのではと危惧したとありますが、信長の遺体が発見できなかったことは、光秀を焦らせたでしょう。信長が生存している可能性がゼロではないからです。信長が生き延びていたなら、それこそ光秀は一巻の終わりです。
実際には信長は本能寺で死んでいるのですが、「信長は死なず」という情報を上手く流したのが、羽柴秀吉でした。秀吉は本能寺の変をいち早く知ると、対峙していた毛利氏と和睦し、備中国から姫路方面に向けて撤退を始めます。その途上、秀吉は摂津国の武将・中川清秀に返書(6月5日付)を書いているのですが、それは「京都より来た者がはっきりと、上様(信長)と殿様(信忠)は無事であり、脱出して膳所(近江国)に退かれたと言った。福富平左衛門の比類なき働きにより、無事に退くことができたとのこと。まずもってめでたい」との内容でした。
秀吉は信長が生きていると吹聴
秀吉は信長の死を知っていて、あえて偽情報を書き送ったのです。光秀を討つには多くの武将を自らに加勢させる必要があります。よって「信長は生きている」との情報を流し、諸将の動揺を防ごうとしたのでした。逆に、信長は既に死んだということが知れ渡れば、光秀に加勢する者がいたとしてもおかしくはありません。
光秀は信長の遺体を見つけることはできませんでしたが、そのことは光秀の運命にどのような影響を与えたのでしょうか。筆者は仮に光秀が信長の遺体を見つけ出していたとしても、大勢に影響はなかったと考えています。
信長の首があれば光秀は勝ったか
例えば光秀の縁戚でもある細川藤孝・忠興父子(光秀の娘・ガラシャが忠興に嫁いでいた)は、本能寺の変後に光秀から加勢するよう懇願されますが、彼らは要請を蹴ります。それは主君である信長を光秀が討ったことを不義であるとして歓迎しなかったこともありますし、今後の情勢を読んで光秀に味方することの不利を悟ったこともあるでしょう(藤孝は信長の死を悼み出家しています)。
信長の遺体を光秀が発見していたとしても、細川父子の態度に変化があったとは思われません。光秀の不義が歴然としたとして、いっそう拒絶された可能性が高いでしょう。光秀は主君・信長を突発的に討った時点でその運命は極まっていたと言えます。
1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師・大阪観光大学観光学研究所客員研究員を経て、現在は武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー、日本文藝家協会会員。歴史研究機構代表取締役。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。